退職について本気を出して考えている。
# 歌029
- 腰がおしまいになった。レントゲンでは異常なしとのこと。すごくなでがたで背骨がふつうより一個多くみえるといわれました。
- 米澤穂信先生の小市民シリーズを春から秋まで読みました。小説をひさしぶりによんだのですがおもしろかったです。
- 「カラオケ行こ」の映画をみた。最後の「紅」があまりにもうつくしくくるしくてめそめそ泣きました。「この一瞬」にむかって物語が焦点をむすんでいく。
- 青春はちいさな自死のつみかさね。
- 短歌をつくりたいとおもいました。わたしにできることならば。
- 腰痛の本、メンタルヘルスの本、享楽社会論、構造と力、ブルシットジョブ、パワーハラスメントの本、などをつんでいます。なぜわたしたちはこんなにもくるしいのでしょうか。
- なで肩にもぴったりあうリュックサックがほしい。
わたしににあうリュックサックがあるならばわたしはうれしいはずなのだった
短歌50首1日でつくるメモ
「起きられない朝のための短歌入門」で即詠の話があった。100首会という営みがあることをつねづね知っていて、参加したことはなく、短歌をたくさんつくる練習をしようとおもいました。
続きを読む# 歌027
- 年の瀬であり、やらなければならない仕事はたまっているのだけれども、のんびりとしている。
- ひさしぶりに本を読む時間ができたので、ひたすらつんである本のうち「起きられない朝のための短歌入門」をひもといてみて、なにかを書きたい、という気持ちになったので、入門に一時的に成功したのだとおもう。よい本だとおもいました。
- まだ第一章をよみおえたばかりなのだけれども、率直な感想をのべれば、知っていることばかりが書いてある、という印象がつよくて、いいいみで退屈ですらあった。作者たちと同じようにものをかんがえられているという点だけをとりだせばよい感触なのかもしれないし、感想としてはわるい感想なのかもしれない。脳の機能がおとろえていて、あたらしいことをよめていないだけの可能性もいなめない。
- 「バベットの晩餐会」をよみはじめている。本を読むことはたのしかったということをおもいだしはじめている。
- 最近買ったもの。エルゴノミックマウス(エレコム)。ミスタードーナツの福袋。下仁田ねぎ。新得地鶏。
- 漫才の大会を画面でみた。あまり関係ないのだけれども、ママタルトのラジオで「ソラニンの全2巻は実家にある」というくだりがすごくよかった。高校生ではじめて読んだとき、大学生になって帰省したとき、就活のとき、芸人になってから、と読み返すたびに感じ方が違う、ということ。人生の意味がそうであるように、物語の意味はひとつではない。
どうせすぐすべてわすれる朝焼けのブルーベリーとブラックベリー
# 歌025
- 前回の日記の更新が8月であることにおどろく。8月?
- 東京で文学フリマがあったという。昨日の18:00くらいにすずちうさんから急に短歌がおくられてきたので取り急ぎ短歌をおくりかえしたらネットプリントになりました。詳しくは「稀風社ブログ」などを参照してください。
- 11/11に初雪を観測。夏至をすぎて体調がどんどんわるくなっていたのだが、雪が降って空があかるくなり、すこし気分がやわらぎました。
ちょっと前の話。
Twitter(現X)の「#夏の絵定型にしてみた」というタグで、野村日魚子さんの短歌を57577の定形にする、という試みがあっておもしろかったのでいくつか短歌をつくった。(野村さんのアカウントはいま鍵がかかっていて確認できなかったので細かいところが違うかもしれない。間違っていたら申し訳ございません。)
その中の一首。
遠近法を覚えてあなたがとても遠くなる 夏の絵
— ミカミハルミ (@kmhr_t) 2023年10月31日
↓
夏の絵のあなたが遠くなってゆく遠近法をおぼえてからは
#夏の絵定型にしてみた
遠近法を覚えてあなたがとても遠くなる 夏の絵
という一首では、 特に結句の「夏の絵」の前におかれた空白(ブランク)の作用/切れによって、
(わたしが/あなたが)遠近法を覚えて、夏の絵(を書いている/の中にいる/を書いているわたしにとっての/をみているわたしにとっての)あなたがとても遠くなる
というような、複数の世界の併置が生じているようにおもうのだけれども、このニュアンスをなるべくそこなわずに改作しようとおもったとき、
夏の絵のあなたが遠くなってゆく遠近法をおぼえてからは
という作例にいたったのでした。
ポイントはいくつかあるのだけれども、まず初句の「夏の絵の」の「の」には先のブランクと同じ「切れ」の意味を持たせていて、また上の句と下の句の間にも同じくらいの「切れ」をわたしはおもっていて、本当は「夏の絵の / あなたが遠くなってゆく / 遠近法をおぼえてからは」、という3部分くらいにわけられるようにかんがえている。
そのうえで、遠近法をおぼえたのはわたしなのかあなたなのか、あなたは夏の絵を書いているのか夏の絵のなかにいるのか、それともわたしが夏の絵を書いている/みているのか、という複数の可能性が、「の」の作用によって、そのままに保たれれば、とおもったつもりでした。
結句に「からは」を継ぎ足したことについては賛否(解釈?)がわかれるところで、余計なものを足してしまったという気分も否めないのだけれども、元の歌の結句の「夏の絵」の字足らずの言い差しの感じ、余韻がのこるような感じをどう再現しようかとおもったときに、「からは」の言い差しで代替しようとした、という感じです。
こういうことを考える時間や、うまいこと言葉にして伝える時間がなくなってしまったのですが、たのしかったので記録しておこうとおもいました。
おわり。
ものを書くのはたのしくてくるしいいとなみですね。