# 歌025

  • 前回の日記の更新が8月であることにおどろく。8月?
  • 東京で文学フリマがあったという。昨日の18:00くらいにすずちうさんから急に短歌がおくられてきたので取り急ぎ短歌をおくりかえしたらネットプリントになりました。詳しくは「稀風社ブログ」などを参照してください。
  • 11/11に初雪を観測。夏至をすぎて体調がどんどんわるくなっていたのだが、雪が降って空があかるくなり、すこし気分がやわらぎました。


 ちょっと前の話。
 Twitter(現X)の「#夏の絵定型にしてみた」というタグで、野村日魚子さんの短歌を57577の定形にする、という試みがあっておもしろかったのでいくつか短歌をつくった。(野村さんのアカウントはいま鍵がかかっていて確認できなかったので細かいところが違うかもしれない。間違っていたら申し訳ございません。)
 その中の一首。



 遠近法を覚えてあなたがとても遠くなる 夏の絵

 という一首では、 特に結句の「夏の絵」の前におかれた空白(ブランク)の作用/切れによって、

(わたしが/あなたが)遠近法を覚えて、夏の絵(を書いている/の中にいる/を書いているわたしにとっての/をみているわたしにとっての)あなたがとても遠くなる

 というような、複数の世界の併置が生じているようにおもうのだけれども、このニュアンスをなるべくそこなわずに改作しようとおもったとき、

 夏の絵のあなたが遠くなってゆく遠近法をおぼえてからは

 という作例にいたったのでした。
 ポイントはいくつかあるのだけれども、まず初句の「夏の絵の」の「の」には先のブランクと同じ「切れ」の意味を持たせていて、また上の句と下の句の間にも同じくらいの「切れ」をわたしはおもっていて、本当は「夏の絵の / あなたが遠くなってゆく / 遠近法をおぼえてからは」、という3部分くらいにわけられるようにかんがえている。
 そのうえで、遠近法をおぼえたのはわたしなのかあなたなのか、あなたは夏の絵を書いているのか夏の絵のなかにいるのか、それともわたしが夏の絵を書いている/みているのか、という複数の可能性が、「の」の作用によって、そのままに保たれれば、とおもったつもりでした。
 結句に「からは」を継ぎ足したことについては賛否(解釈?)がわかれるところで、余計なものを足してしまったという気分も否めないのだけれども、元の歌の結句の「夏の絵」の字足らずの言い差しの感じ、余韻がのこるような感じをどう再現しようかとおもったときに、「からは」の言い差しで代替しようとした、という感じです。

 こういうことを考える時間や、うまいこと言葉にして伝える時間がなくなってしまったのですが、たのしかったので記録しておこうとおもいました。
 おわり。
 ものを書くのはたのしくてくるしいいとなみですね。

夏の絵のあなたが遠くなってゆく遠近法をおぼえてからは