# 一首評003「遠眼鏡さかさにのぞくとつくにの象の挿頭も見し夕月夜」(山尾悠子)

遠眼鏡さかさにのぞくとつくにの象の挿頭かざしも見し夕月夜

 山尾悠子『角砂糖の日』(LIBRAIRIE6、2016)p.67*1


 山尾悠子さんの歌集(新装版)より。

上二句「遠眼鏡さかさにのぞく」

 冒頭から「非日常の世界を構築しよう」という意欲が全開の書き出しだとおもいます。望遠鏡をわざわざ「遠眼鏡」と古風に書いたり、「さかさにのぞく」とひらがなにひらいてみたり、ふしぎなことを起こそう、という意欲を言葉の選び方からすでにつよくかんじとることができます。
 先取りしていえば、第三句「とつくにの」も、それ以降の「象の挿頭かざし」も「夕月夜」も「見し」の文語調も、すべての語彙がおなじ方向、同じ効果をうむことをめざしているようです。
 何事もやりすぎはよくないですが、この一首にかぎっていえば、そこまでやり過ぎという印象は受けませんでした。三字熟語でひらがなをはさみこむ文字面のリズムや、「とつくに」「挿頭かざし」「見し」の「i音」のリズムが、全体に調和をもたらしているのかもしれません。
 この「さかさにのぞく」は(おそらく)終止形で、この二句まででいったん「切れ」があり、さかさにのぞいたらいったいなにがおこるだろう、とどきどきしながら次の句にうつります。

下三句「とつくにの象の挿頭かざしも見し夕月夜」

 望遠鏡をみれば遠くのものを近くにみることができる、逆に、望遠鏡を逆さにみれば近くのものが遠くに見える、というのは遊んだこともあるひともおおいとおもいます。このような常識にたいして、この第三句以降は常識外れのふしぎなことをやはり述べようとしているようです。

「とつくに」はどのように見えているのか?

 ふたつの解釈があるとおもいます。

  1. 実際に遠眼鏡を通して見えている小さな世界をあえて「とつくに」と呼んでいる
  2. 本来みえることのない「とつくに」が実際に見えてしまっている

 書いといてなんですが、これはどちらの解釈でもよいのかもしれません。
 しいていえば、1番はこのひとの心のなかに「内なる魔術」がはたらいているという解釈。これにたいして2番は、この遠眼鏡自体(あるいはこの世界)にふしぎがある、遠眼鏡(あるいは世界)に「外なる魔術」がはたらいている、という解釈です。

象の挿頭かざしとは?

 一番ひっかかるのは挿頭という聞き慣れない言葉だとおもいます。
 辞書でしらべたら言葉の意味はわかりますが*2、なんだかふしぎだなあ、頭に挿すものなのかなあ、象の頭がきれいに飾られているのかなあ、くらいの読み方でも、「とりあえずの鑑賞」においては妨げにはならないとおもいます。
 はじめから全部を知ろうとするとつかれてしまうので、ほどほどの距離から、すこしずつ、自分のペースで近づいていくほうが、歌を読むうえでは気が楽だとおもいます。
 象に挿頭をつけるという風習がどこか外つ国にはあるのか、作者のオリジナルな創作なのか、気になるなあとおもいました。

「見し夕月夜」のふしぎ

 「見し夕月夜」は「~というものを見たそのときは夕月夜だった。」と、状況説明をしているだけの部分におもえるのですが、ここまで書いて、「見し」がかなりふしぎだとおもいました。

① 遠眼鏡をさかさにのぞけばとつくにの象の挿頭が見えた夕月夜

であれば文章の流れはふつうのになるのですが、この歌ではこのようには書かれていない。むしろここまでの解釈では(句切れを強調して句点で書いて)、

② 遠眼鏡をさかさにのぞく。とつくにの象の挿頭も見た夕月夜

となって、前半と後半で時制が一致していないことに気づきます。「見えし」(見えた)ではなく「見し」(見た)なのもなんだかふしぎです。並列の「も」も、「象の挿頭+α」をわたしが見たのではなく、「わたし+象の挿頭」がなにかをみたかのようです。
 こう考えると、ほんとうに「夕月夜」はただの状況説明なのか、疑問が浮かんできました。

再解釈

 二句切れではないとすると可能な解釈はかなりふえてしまうのですが(それこそ「遠眼鏡をのぞく象」なんかも可能かもしれない)、この歌の文体がつくりあげた幻想的なせかいをふまえ、次のような解釈を提案してみます。

③ 遠眼鏡をさかさにのぞくと(とつくにの象の挿頭も見た)夕月夜(がみえるのだった)

 意味としては解釈①のほうが穏当だとおもいますが、文法的にはこの解釈③も決して不可能ではないとおもいます。

 わたしが遠眼鏡をのぞくと夕月夜がみえる。ここではないどこか遠くのその夕月夜の世界には象が住んでいる。象は挿頭をかざられている。象は夕月夜を眺めている。象だけではない、無生物であるはずの挿頭もまた、その夕月夜を見つめている。遠眼鏡を通じて、わたしはそれを感じている。

 ひとりで短歌を読むというかぎりにおいて、信じるか、信じないかはわたし次第なのですが、あなたはどうおもったでしょうか。説得的だとおもったでしょうか。
 わたしはあまり自信がなく、他の評者のかたの意見をうかがってみたいとおもいます。*3

おわりに(うたをはなれた余談)

 解釈①の内容に沿って文法的にすなおに書こうとすれば改作はいくらでも可能です。

  • 「遠眼鏡さかさにみればとつくにの象の挿頭のみえし夕刻」 (三上改作1)
  • 「遠眼鏡さかさにのぞく夕月夜とつくにの挿頭の象はみゆ」 (三上改作2)

あるいは、元の歌にもうすこし近づければ、

  • 「遠眼鏡さかさにのぞきとつくにの象の挿頭を見し夕月夜」 (三上改作3)

という改作もかんがえられます。
 しかし、どの改作も、元の歌がもっていたふしぎな魅力を減じてしまっているとおもいます。

 掲出歌をおさめる山尾悠子歌集「角砂糖の日」は、底しれない魅力をたたえつつ、ついに完成しなかった、完成できなかった歌集なのかもしれない、とすらおもえてきました。
 この不安定さ、不確かさをふくめ、他に類をみない、稀有な歌集だとおもいます。

*1:引用は新装版より。初版は(深夜叢書社、1982)

*2:「神事や饗宴のとき,冠の巾子(こじ)にさす造花の飾り」(マイペディア) https://kotobank.jp/word/%E6%8C%BF%E9%A0%AD-461656#w-824696

*3:歌会のときはこのように他のひとに話をふってしめることがままありました