# 一首評004「秋の夜はねむるものにも冴えているものにも掛かる手品師の布」(山階基)

秋の夜はねむるものにも冴えているものにも掛かる手品師の布

 山階基『風にあたる拾遺 2010-2019』(私家版、2019)p.44*1


第一句「秋の夜は」

この短歌的な「は」の使い方がまずすきだとおもいます。リズムとしては、「は」のところでちいさな「切れ」があって、ここで「秋の夜」の空間を広くイメージして、以降の句への助走をおおきくとる、踏切板というか、おおきく息をすうようなイメージ。
文法的にいえば、この「は」は「主題の提示」としての「は」で、「秋の夜というものは~」、の「~」内容が今後に提示されることが予感される。「春はあけぼの」とか「やまとうたは、人の心を種として」、などなどから連綿とつかわれる、由緒正しき「は」だとおもいます。
キーワードは「予感」です。初句に「~は」を置くことで、あとにつづく空間がひろく定義されています。

第二~第四句「ねむるものにも冴えているものにも掛かる」

ここもすごくすきなのですが、ポイントをわけて分析していきます。

音数と句切れの緩急

音数を数えると、「ねむるものにも」(7音)、「冴えているものにも」(9音)、「掛かる」(3音)と分解されます。第二句の「ねむるものにも」は7音で句切れと一致、次の「冴えているものにも」では字数は2字増えて、第三句から第四句への句跨りが生じていて、大きな山をのぼるかんじがあります。そこからの「掛かる」の3音で結句に一気に向かっていく。ゆったり感とスピード感の落差がうれしい部分です。

漢字と対比

「ねむるもの」と「冴えているもの」が対比されているわけですが、「ねむるもの」がひらがななのがまずすきで、やっぱり「ねむる」のやわらかい感じが生きている。
対比される一方が、「目覚めているもの」ではなくて、「冴えているもの」、という言葉の選択もクールだとおもいます。秋の夜にぐっすりとあたたかくねむっているひとがいる、その他方に、すっきりと冴えているひとがいる。ここは漢字でなければならないし、「冴えている」と書くことで、秋の夜のつめたさも感じさせる。対比の構造がしっかりと生きている。
さらにいえば、さりげないポイントですが、「ねむるひと」ではなくて「ねむるもの」、「冴えているひと」ではなくて「冴えているもの」、なのもポイントです。「ひと」以外の万物への目配せを感じさせ、人間中心主義を脱して、世界観をひろくふかめています。

「掛かる」の予感

先取りしていえば、ここの「掛かる」には「毛布が掛かる」「手品が掛かる」の掛詞のニュアンスがあって、先のスピード感もあって、結句までを一気に読ませてくれます。

結句「手品師の布」

あらためてすごくふしぎな歌だとおもいます。「秋の夜は手品師の布」だという。

この「布」には毛布あるいは掛け布団の意味合いが感じられて、ねむっているひとだけではなくて、すこし肌寒い秋の夜を、勉強をしたり、仕事をしたりしている、そんなひとびとにもあたたかい毛布をかけてあげたい、というやさしいまなざしが、まずはすこし感じられます。
他方で、やはりこれは手品師の布なわけです。
ねむっているものも、めざめているものも、すべてを平等におおってしまったあとは、当然手品のように、みんなは消えてしまうかもしれない。こわいようでもあり、やはりやさしいようでもある。みんなが消えてしまったほうが世界はうれしいのかもしれない、あるいは、消えてしまったほうがみんなはうれしいのかもしれない。
終末願望、という言葉はすこしつよいかもしれませんが、世界に対するやさしさとあきらめ(あるいは反転した希望)が同居している、ふしぎな結句だとおもいます。

そしてでも、さらにいえば、手品はやはり手品でしかなくて、きえてしまったわたしたちは手品がおわればもとにもどる。夢からさめるように、ねむるものは冴えているものとして、冴えているものはねむるものとして、この世界にかえってくることになる。
秋という季節がもつ、そんなふしぎなよろこびをとらえた秀歌だとわたしはおもいました。

booth.pm

*1:引用は2019/11/24発行の初版より。章題「2015-2016」