# 抜書001

 〈居場所〉についてかんがえようということで、『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』という本を読んだ。

 「ケアとセラピー」をキーワードにいろいろなことについてかいてる本で、勉強になりつつ、先によんだことを(バイヤール的に)わすれながら、気楽にいちどくをよみおえた。印象にのこった部分について、いつかおもいだせるように抜きがいておこうとおもい、この日記を備忘録としてひらいている。

デイケアでは時間がぐずつく。凪の時間とは、ぐずついて動かない時間のことだ。そのとき僕は、どこにも行けずに「今、ここ」に引きとめられている。(p.138)


退屈とは空虚のなかに放置されることであり、物が僕たちに何も提供してくれないことを意味していた。(…)ハエバルくんやメンバーさんの世界では、空間に「何か」が充満していたのだ。たとえば、幻聴。それは何もないところに響く声だ。あるいは「脳を抜かれている」と語るメンバーさんの空間は、宇宙からやってくる電波で満たされている。それから、被害妄想。誰も何も言っていないのに、冷たいまなざしを感じてしまう。それは何も統合失調症の人だけに限らない。(…)みんなの視線が痛い。本当はそこには何もないのに、充満する「何か」を感じてしまうということがある。空虚はときに充満に変わってしまう。

 すると、退屈なんかしていられない。悪しきものが充満する空間では、一瞬一瞬が切実な時間になる。なんとかかんとか、しのいでいかないといけない危険な時間になる。(pp.139-140)

 ここでいう「悪しきものが充満する空間」についてかんがえる。後半では、統合失調症からの回復の過程で、ひとは「退屈」をかんじられるようになること、そのためには「遊び」が重要であること、が言及される。「心が逼迫ひっぱくしているとき、僕らは遊ぶことができなくなる」(p.152)

 わたしじしんは、ふだん、つねに忙しなく、なにかに追われているようなきもちがつよい。生活から「遊び」がなくなり、読まなければいけない本、しなければならない仕事、におもいのたいはんが占められる。よゆうがない。ひととのやりとりのひとつひとつにいちじるしい疲労感をおぼえる。高校生くらいから「退屈」をかんじた記憶がほとんどないことに気づく。

 このようなひとははたしてわたしだけなのだろうか、とおもう。

 インターネットに退屈がない。広告と加速主義によってドリブンされる情報の世界。退屈について、本書でも多数言及される國分功一郎さんの仕事は、いくつかよんで、おおくをわすれてしまっている。最終章で言及される「アジール」と「アサイラム」の話、あるいは「専門家」と「素人」の話なども、ここに関連させてかんがえることができるかもしれない。忙しさという外的要因から避難するためのアジール。あるいは、専門性という「ドゥーリア」(ケアする人をケアするもの)。

たとえ、白衣を脱いでジャージに着替えても、僕が専門家であることは変わらない。依存労働をするとき、僕はそれでも臨床心理学という衣を身にまとっていた。専門性が、ケアする人が生き残ることを可能にしてくれる。(pp.117-118)

 もうひとつ。

デイケアでは「変わらない」ことにも高い価値が置かれる。(…)僕らが生きているこの社会では「変わる」ことがとても大事なこととされている。(…)目標を達成する、成長する、変わっていく。そういうことが良しとされている。それが僕らの社会の倫理だ。

 だけど、それってじつは特殊なことではないか。僕らはとても偏った社会に生きているのではないか。(pp.188-189)

 著者はレヴィ=ストロースの「熱い社会」「冷たい社会」の区分をひきつつ、「僕らは熱くも生きているけど、同時に冷たくも生きている」(p.190)と述べる。「変わっていくことを目指しているときもあるけど、変わらないように注意を払ってもいる。」

 たとえば、資本主義の、新自由主義の、はてなき経済成長のことをおもうとき、変わりつづけることはしんどいとおもう。けれども同時に、フェミニズムの、経済格差の、持続可能性のことをかんがえるとき、やはり社会は変わらなければならない、ともおもう。

 というわけで、いまは『人新世の「資本論」』と、フェミニズムの本、アダム・スミスについての本、などをよんだりよまなかったりしている。