# 所記002

 「居場所」についてかんがえている。「ここは居心地がわるい」とかんじることについて。たとえば多数派にかこまれている少数派のような。

 「ここはわたしの居場所だ」と、喧伝するような文体がある。ちからづよい。それぞれの時代、それぞれの集団(結社)、それぞれの地域ごとに、主流、メインストリームとなる文体があっただろう。その一方で、「ここはわたしの居場所ではない」とうたうような文体も当然ある。ただしこれにはさまざまなうたいぶりが想定できる。「ここはわたしの居場所ではない。そして、このような世界はまちがっている。この歌をもって世界を変革しなければならない」と、鬼気迫る文体があるだろう。他方で、「ここはわたしの居場所ではない」という違和感を、ただそのまま表明するための文体もある。平井弘の文体をこのようなものとしてとらえることをかんがえている。

 前衛短歌運動をになった男性歌人の(塚本邦雄の、岡井隆の、寺山修司の、……)文体を、上記の見取り図でどう位置づけるかはむずかしい。いわゆる近代短歌を〈メイン〉とすれば前衛は〈サブ〉になるだろう。だが、いまふりかえって時代を整理するとき、たとえば塚本の文体には〈メイン〉と呼びたくなる気風がただよう(〈サブメイン〉?)。〈男性性〉を謳歌するような歌のあり方。そのような〈サブメイン〉にたいする〈サブサブ〉としての平井弘。〈男性性〉のちからづよさにたいするあこがれとおそれ。くちごもり。わたしがここにいることはまちがっているのではないか、という絶えざる問い直し。幽霊のような浮遊感。それでもなお、〈男性〉であること、〈人間〉であることをやめることはできないということの、葛藤、あるいはよろこびとくるしみ。

 マイノリティの文体、と標語的に述べることはためらわれるし、あきらかに誤謬がある。平井弘の文体も〈男性性〉の表出のバリエーションにすぎないのかもしれない(ここはまだかんがえがまとまらないところだが)。マジョリティにもマイノリティにもなりきれない、居場所のない、連帯できない、アイデンティティのゆらいだ文体、と述べるほうがしっくりくるような気もする。

 なんにせよ、このような視点から平井弘の作品を現在時に位置づけて、読みなおしてみたいとかんがえ、資料をそろえはじめている。