# 歌007

前の文章もそうなのだが、意味のとおる文章を書けばいいのに、そうしようとすると文体がもたついてしまって、つい断片的な書き方をしてしまう。それでいてわたしの文章はまわりくどい。いたずらに暗示的で、核心がみえず、読みにくい。
「暗示的」ということにはメリットもある。「暗示」は詩の多義性を確保するもっともかんたんな方法のひとつだ。判断を読者にゆだね、さまざまなことを「言ってもいるし言わないでもいる」状態に留保する。吉本隆明はかつて『重層的な非決定』とのべた。よい意味でもわるい意味でもずるい態度だ。
一方で「明示的」なものはシンプルにつよい。好かれやすい。ひとを動員するためには「明示的」なものほど効率がよい。ゆえに失敗もしやすいのだが。

わたしの兄はかつてわたしの兄でした声をもたない小鳩のような

短歌でいえばナンセンス(無意味)なものをしばしば好んでよんでしまう。「わたしの兄はわたしの兄でした」のトートロジーや、「いつの日か子供のころに抜け殻の犬をあつめる遊びをしよう」の語義矛盾など。ナンセンスの遊び(探究)をやめるつもりはないが、それだけでは行き詰まってしまうともおもう。