# 一首評005「人間は背伸びをしてもちょっとしか上がらないのがかわいいところ」(今井心)

人間は背伸びをしてもちょっとしか上がらないのがかわいいところ

 今井心『目を閉じて砂浜に頭から刺さりたい』(私家版、2018)p.47*1


Q.人間のかわいいところといえば?

という問いに対するこのひとなりの答えをのべるような短歌です。
おおきくいえば「発想の歌」というくくりに入りますが、発想の意外性、をこえたところで勝負をかけている印象です。

「人間のかわいいところ」は「背伸びをしてもちょっとしか上がらないところ」と回答する。えてして「かわいいもの」を考えるという行為は考えるひと自身のあたまもほわほわにして、そのひとをかわいくしてしまうものですが、この回答がすでにちょっとかわいくて、うがった見方をすると、あざといようにすらおもいます。回答=歌の内容以外のメタメッセージとして「人間のかわいさ」をさらに歌っているかのようです。

しかし一方で、このひとは人間の「かわいいところ」=「よいところ」は「背伸びをしてもちょっとしか上がらないところ」くらいである、とおもっているのかもしれません。「人間」という生物に対する透き通った観察眼におどろくような気持ちになります。あざとい、という印象はむしろ作者にだまされているだけかもしれない。

愛らしくも底しれない一首だとおもいます。

初句「人間は」

おおきくふりかぶったような初句で歌がはじまります。
「人間は~である」という大仰な人間論がふりかざされる予感から歌がはじまりました。
(これが後半で裏切られていくのもこの歌のおもしろいところだとおもいます。)

第二~第四句「背伸びをしてもちょっとしか上がらないのが」

ここのよさを「観察のよさ」と「発想のよさ」にわけて述べたいとおもいます。

観察のよさ

人間の背伸びに対して「ちょっとしか上がらない」という捉え方がまず非凡だとおもいます。背伸びを量でとらえるという発想は、人間を物質として客観視してもなかなか出てこない。
「背伸びをする」というのは、それ自体が慣用句にもなっていますが、「等身大」に対してちいさないきものが無理してがんばっている感じがあります。そのよさを「ちょっとしか上がらない」という否定形で切り取っている。
(人間のような)小さないきものにはできないことが多い、できないけれどそのことがかわいさになる、ということを過不足ない言葉で表現している。

発想のよさ

歌のできるプロセスを想像すると、

  1. 「人間は背伸びをしてもちょっとしか上がらない」という観察から「これはかわいい」と発想したパターン
  2. 「人間のかわいいところはどこだろう」という問いから「背伸びをしてもちょっとしか上がらないところ」と発想したパターン

のふたつが考えられるとおもいます。このうち前者のほうが発想としてはスムーズだとおもいますが、この歌の「人間は~がかわいいところ」という書きぶりはむしろ、後者の発想の流れで歌が生まれたかのように読者に意識させる。
「こんなことおもいつかないよ」と読者におもわせ、さらにこの歌を奥深くしているとおもいます。

第五句「かわいいところ」

結句がちょっと突き放すような体言止めでおわるのがこの歌のさらにすきなところです。
頭から「人間のいったい何が述べられているのだ」とおもって読んでいたら、この結句で「なんだ、かわいいところか」と思う。一拍おいて「背伸びをしてもちょっとしか上がらないのがかわいいところか?」と驚かされ、たしかにそうかも、と妙に納得させられる。驚きと納得が同時に生じるのが絶妙だとおもいます。
「人間は~がかわいい」というこの観察眼と突き放し方は、宇宙人が人間をみているかのようでもあります。
でも、この歌をうたっているひともおそらく人間で、ここにはちいさなねじれがある。自分で自分をかわいいとおもっている可能性もあるし、自分は人間に対する宇宙人のような存在だ、とおもっているような感じもある。
「発想の歌」は「大喜利」に例えられもしますが、大喜利のコツのひとつに、回答にそのひとの人(にん)があらわれること、という考えがあるそうです。
この「自分で自分をかわいいとおもっている」「自分は宇宙人だとおもっている」のどちらでもあるような感じに、このひとのキャラクターが出ていて、「人間のかわいさ」を多角的に歌うことに成功した、愛らしくて底しれない一首だとおもいました。

*1:「夢プリン、丼で。」