Twitterをみていたら自分の歌がとりあげられていた。
ナナフシは鳥に食べられ遠くまで卵を運んでもらうだろうか?/三上春海『撤退戦』 - 音声一首評 - Radiotalk(ラジオトーク)
おもしろかったのは「ふたりぐみ」あるいは「コンビ」という概念にたいするとらえかたの部分で、鈴木ちはねさんとわたしを「コンビ」ととらえたことはじぶんではなかったけれど、たしかに、とおもい、すずちうさんとわたしという対幻想、あるいは稀風社という共同幻想をとおすかたちで(こうして日記という自己幻想をとおして歌をつくってはいるのだけれど)、活動をまたやりたいなあというきもちになりました。
とりあげられている歌は、あまりとりあげられた印象はないのだけれども、よい歌なので、とりあげられていてうれしいという気持ちになりました。しかしそれを評者にたいし、ありがとうと、わざわざつたえるほどでもない、とも(いまのわたしは)おもう。歌をつくるということと、それを評するということには、決定的な断絶がたもたれていたほうがよいとおもうので。
とりあげられることで、歌はわたしのものでなくなる。あるいはなくなってくれる。
採ることが、取ることであり、穫ること、あるいは盗ることでもあるということ。
短詩のこういう部分は、ほかの文芸にはあまりない、よくもわるくも、独自性だとおもいます。