詩集をさいきんよく目にする。あえて、「読んでいる」とは書かないでおく。
例えば『活発な暗闇』という、小説家の江國香織さんが編んだ詩集をぱらぱらとめくっていて、どの詩もおもしろくて、感動している。
詩だ、とおもう。
でも、それだけでしかない。
私は短歌や俳句や小説やブログを書いたりする。でも、詩を書きたいとおもったことがあまりない。詩をみて、感動することは多い。でも、そのような「感動」を自分もまた詩によって創造したい、とおもうことがあまりない。
詩の感動、それを表現すること。
すばらしい詩はたくさんある。詩の感動と呼ばれるものは、あるだろう。
でも、それを新しく、「再生産」することに、果たしてどのような意味があるのだろう。
詩を書くひとは多い。詩を書く人はなにを考えているのだろう。詩を書こうとしているならば、つまり、すでにある詩と同様の感動を再生産しようとしているならば、それはほとんど不要な(自己満足な)行為なのではないだろうか。
詩を読んで感動した、その感動を、自分もまた書いてみたい……?
それよりも、自分が感動したというその詩を、ひとに教えたほうが、効率的なのではないだろうか?
詩はだから、閉じているのではないかという気がする。「詩的」なものが先にあり、現代の詩人を志すひとたちは、そのパターンをいたずらに増やしているだけなのではないか。「詩的」なものの繰り返しになっていないか。確かに、そのようにして生み出される作品は「詩的」であり、感動するのだ。技術的に優れていて、ひとに容易に真似できるものではない。でも、それが新しく作られる必要はまったくない。だって、似たものはすでにある。先人の作品をあえて忘れて、新しいまったく同じ「詩的」作品を読む、そんなの、先に生まれた作品が悲しいじゃないか。
「詩的」なものを作ろうとするのはだから、私にはかなしいことにおもえる。
しかしでは、なにを作ればいいのだろう?
現在ある「詩的」のパターンを抜けだして、新しい、まったくなにもない空白に「詩的」なものを創りだしてみる。
新しい詩。登場してすぐには、誰にも「詩」であると気付かれない。でも、後世になってこれは詩だと評価される。そういう詩をだれかが書いていることに、まだ、誰も気付いていない。
そして、それだってすぐに新しさを失ってしまう。
人間の感情、つまり、脳内の状態は有限のパターンにわけられる。詩でひとを感動させるよりも、化学物質でひとを感動させるほうが、効率的だ。
しかし、詩はひとに向かう。ひとに触れることのない詩に意味はない。詩の目的はつねにひとにある。だから、詩の効果を化学物質の効果と区別することは決してできない。
詩の結果、つまり人間の反応に、詩の特異性、意義を見出すことはできない。
詩は未来に向けての記憶なのではないか。
歴史資料になる詩。(ここにいる私のことではなく)「我々」というひとつの記憶がいま・ここにあったという、それだけを記録すること。詩に普遍性を求めてはいけなくて、ただひたすらに、陳腐であること。ベタに、現在に結びつくこと。現在に言葉という楔を打ち込むこと。
それが目的か。
いや、それも違う気がする。
なぜ詩は書かれるのか。その理由は簡単だ。詩を書くことによって快楽を覚えるひとがいるから。
なぜ詩は読まれるのか。それもまた、読者の快楽によって結論付けられる。
そして、だから、すべて無意味だ。流れ去る。死ぬ。消える。それでいい。
でも、詩という行為はなくならない。それでいいのかもしれない。いや、それだからいいのかもしれない。
人間は詩を作り続け、詩を忘れ続ける。ときどき思い出して、楽しくなる。
声を出して名前を呼ぶ、振り向いてもらって、嬉しくなる。そういう無意味さを愛してみる。詩を書くことと何も変わらない。
やはり、私は詩を書く理由を持たない。短歌も、俳句も、小説も同じく。あえて言うならば、暇だから。ひょっとして、歴史資料になる。それだけ。それでいいのだと、いまはおもう。
終わり。