戦国コレクションについて書くことなど

 戦国コレクションというアニメをちょっと前まですごくわくわくしながら観ていたのだけれども、視聴時の感動を、どんどんと忘れている私がいる。もう、あまり覚えていないのかもしれない。あれだけわくわくしていたはずなのに、全部、いつの日か忘れてしまう。

 感動を記憶することに、どれだけの「強度」があるのだろう。忘れられていく感動に、はたしてなんの意味があったのだろう。私はわからない。それでも、わくわくすることを求めて生活している、ことを否定出来ない。

 戦国コレクションについて思い出しながら書いてみたい。

 

 戦国コレクションを観た理由。ツイッターで誰かが言及していたんだった。確か、@dot_aiaさんだったとおもう(.あいあさんが戦国コレクションに関するツイートをリツイートしたのだったかもしれない)。戦国コレクション3話『Pure Angel』が地上波で放送していたころだったとおもう。

 動画配信サイトではちょうど初回の1話と、少し遅れての(配信サイトでの)最新話2話が配信していて、それを順番に観たのだった、とおもうけれども、記憶が曖昧でひょっとして違うかもしれない。1話だけを観たのだったかもしれない。まあなんにせよ、少し遅れて、後から追う形で、私は戦国コレクションの視聴を始めたんだ。

 第1話『Sweet Little Devil』を観る。変なアニメだとおもった。というか、「面白くはない」とおもっていたはずだ。でも、気になった。それからのち、少しして2話『Peaceful Empress』を観た。やはり、変なアニメだとおもった。変なアニメ、それ以上の強い関心は抱かなかったとおもう。

 でも、そのころ私の好きな作品に、映画『ローマの休日』が、またテレビアニメ『THE IDOLM@STER』があって、そんな風な別角度からの印象は残った。それぞれ戦国コレクション1話、2話と、内容がゆるく関連していたりしていなかったりする。

 

 札幌の深夜テレビ、地上波で初めて観たのは4話『One-eyed Dragon』からだったとおもう。あの「スタイリッシュ成敗」の回。ますます、私は変なアニメだとおもった。

 アニメについて、自分の感想をうまく言語化する言葉を私は持っていない。だから、「変なアニメ」以外の言葉は出てこない。はじめそうだったし、4話を観たこのころもそうおもったし、そして現在も、戦国コレクションは「変なアニメ」だとおもっている。でも、その表現の意図は変わっている。

 「変なアニメ」という表現の中に、いまの私は度数のかなり高い「好意」を含ませて使っている。その違いをひとにうまく伝えることができない、伝えるための言葉を私は持たない。だから表現は「変なアニメ」のまま固定される。でも、違う。違いを伝えられるとはおもえないからこのことについてはもう繰り返さない。

 それから、配信で3話『Pure Angel』を観た。

 「変なアニメ」だとまたおもった。思いは確信犯的になっていった。

 

 テレビアニメを観るとき、興味関心が盛り上がっていくときと、盛り下がっていくときがある。最近は盛り下がっていくことの方が多くて、最終話までたどり着けるアニメが少ない。作品が悪いのではなく、飽きっぽい私が悪いだけ。

 なのだけれども、戦国コレクションは珍しく、後半に行けば行くほど関心が盛り上がっていくアニメだった。次の話が楽しみで仕方がない。そして、毎回「変なアニメ」だということを確信して終わる。同じことの繰り返しといえばそうなのかもしれない。私は毎週、戦国コレクションが「変なアニメ」であることを確認しようとしていただけなのかもしれない。

 だけれども、次の話をとても楽しみにする、私は確かに存在した。何が出てくるか分からない戦国コレクションに、謎の誘惑を感じていた。

 

 戦国コレクションへの興味関心が、「変なもの」への知的好奇心から、おそらくは尊敬に類する純度の高いものになったのは、まず第8話『Regent Girl』、そして何よりも第18話『Four Leaves』の影響である。

 画面を観て、信じられない思いがする。テレビアニメでこんなことが可能なのかと、私は驚かされた。テレビ画面から目が離せなくなった。中では輝いていた。何が? そこにあったのは優れた「構造」やよくできた「エンターテインメント」などではなくて、突出した「偶然」、溢れだしてしまった「混沌」なのではないか。

 本来制御・調整されるはずの塊が、そのままに流出してしまった事故。

 やはり、うまく表現することができない。

 けれども、確かに「輝き」を感じていたんだ。

 

 しかしおそらく、戦国コレクションは決して「特異的」なアニメではないとおもう。まず、個々の作品は「どこかで観たような」話を意図的に作っている(ときにあやふやに、ときに露骨なパロディとして)。プロの仕事だけれども、決してプロのなかでも特出した「歴史に残る」ほどの傑作が描かれているわけではないとおもう。そして全体の構成についても、私はテレビアニメには詳しくないけど、似たような作品がどこかにあるはずだ。

 毎回別用の作品を放出する正体不明のびっくり箱のような、そんな作品は、おそらくは他にもいくつかあるはずだろう。

 私が戦国コレクションに囚われたのは、他の作品を知らないからに違いない。

 

 だから、何がそんなにすごかったのだろう、いまいち、よく分からない。毎回毎回「変なもの」が出てくる、見世物小屋のような楽しみ方をしていたのかもしれないし、この説明が、もっとも人に伝わりやすいような気がする。決して戦国コレクションから深淵な思想を受け取っていたのではないはずだ。唯一無二の出会いをしていたのではないはずだ。所詮は娯楽、つまり、よくできた暇つぶし、なのだろう。

 しかし、本当にそう言い切ってしまっていいのだろうか。

 戦国コレクションは暇つぶしであり、テレビを前に私が過ごした時間は例えばもやしの根切りの時間とまるまる置き換えてしまって、私のその後の人生に全く影響を与えない。そう考えてみる。考えることはできる。しかし、はたして本当にそうなのだろうか。

 ……おそらく、そうなのだろう。

 私はやがて戦国コレクションを見たことを忘れるし、このブログを書いていたことも忘れてしまうに違いない。そういえば、中学生のころ、日記を書いて、一ヶ月ほどでやめたことがあった。すべては忘れられていく。そして、何も影響を残さない。

 そういうことなのだろう。

 そうだろう。

 

 ……でも。

 書くことは何も思い浮かんでいないのに、でも、「でも」とここに書き足してしまう自分がいて、その理由が私にはよくわからない。あの時間は、ただの暇つぶしだったのだろうか、と書いて、そうだ、の一言で文章を終わらせることができない。

 例えば。ひょっとして、ただの暇つぶしではない時間であったということに、これからすることができるのかもしれない。私の生活によって、努力によって。わからないし、そうするべきかも知らない。でも考えている。いや、考えてしまっている。戦国コレクションとはなんだったのか、そして、これからはどうなるのか。私は考えている。これもまた、戦国コレクションを観てしまった影響だろう。

 何を書きたいのか分からない、でも、書かなければいけないような気がする。いつか忘れてしまわないように。いつでも思い出せるように。

 

 戦国世界をはじき出されて、現代という別の世界にやってきた武将たち(歴史人物たち)。そして始まるそれぞれの生活。歴史上の人物と同じ名前で、どこかの作品のパロディ的な世界を生きること。そこには普遍流通する記号のみがあり、唯一無二の独自性がない。

 もし、これが私たちの本当の姿であるならば。

 「私は何になるべきか」ではなく、「私独自の生き方」などは考えず、そして、私としてすら生きないということ。真なる独自性、実存、そういった虚像に惑わされず、そこにある記号としてのみ生きるということ。固有名詞によって「位置」だけを固定されて、あとは何も持たないものたち。あること、そしてそれに徹すること。私たちはそもそも、こういった生命体だったのではないか。膜によって外界から区切られた、たったひとつ存在する有機体。代替可能な点。そこから、すべては始まるのではないか。

 知識によって捏造されてしまった私たちの社会の「あるべき生き方」を、つまりは私たちの社会的価値を、実存を、自己実現という名前の神話を、ラディカルに否定するキャラクターたち。そんなアニメーション。

 ……知らないけど。

 そんなことを例えば考えてみて、やはり、決定的に違うだろう。もっと別のことがどこかにある気がして、私にはよくわからないけど。

 

 また、戦国コレクションを観たいとおもう。今はそれだけ。