完璧な本

 『六つの星星』を読んでいたら川上未映子さんが小説を書くことは苦しいと言っていて、なぜなら『絶対に完璧な本なんて書けない、ということが最初から分かっているから』と書いていてそうだよねーとおもいました。もちろんわたしは川上未映子さんではないからわたしのそうだよねーは空振りをしていて川上未映子さんのおもうとは適合していないのだけれど、わたしはそうだよねーとおもったのはやはり完璧な本なんて存在しないし完璧な本に憧れてしまうからなのだ。

 完璧な本はない。でも完璧な本により近い本なら例えばあって、聖書でもコーランでも論語でもなんでもよいのだけれども、より完璧ではないわたしの文章をつくって読ませることよりもより完璧であるその文章を読むほうが読者には「善い」ことなのだとおもうからわたしはできれば書きたくない。でも書く。わたしは生きているから書いてしまう。

 生きることと書くことは近いけれども違っていて、演じることと書くこともやはり違う。演じることの本質はコミュニケーションでありつまりは「いま」をよりよく生きること、「いま」を生きることをよりよく実感することなのだけれども、書くことの本質はいまにはない。書くことは過去と未来へ延びていくことであり、それはそもそも、現在同士を接続しようとするコミュニケーションの本源的な欲動とは価値観を異にして、書くこととは透明なすでに失われているその廃墟に自らの住まいを作ることだ。書くことの本質は「記録」にある。記録を伴わない書くこと、つまり口頭により「物語る」ことは演じることであり「いま」のためのコミュニケーションである。だが「物語り」に聴衆がい、聴衆がたとえば集落の子どもたちであり自らの「物語り」を集落の記憶として記憶し伝播してくれる可能性を有する時には、「物語り」は記録の性質を帯び、過去と未来に開かれていく。それはただのコミュニケーションではなく双方向的な時間への現実の内挿となる。

 それはそれでよいのだ。

 現在はコミュニケーションの時代というがそれ以上に書くこと=記録することはあふれていて、記録とは脳の専売特許だったはずが、紙の発明と、電子頭脳の発明が状況を大きく変えてしまった。記録が溢れすぎて身体が追いつかなくなる。わたしたちの「いま」を演じる身体が状況に追いつかなくなっているんだ。身体が悲鳴をあげている。

 だからわたしは不用意な記録を用意したくないしできれば自分も「完璧な本」=「完璧な記録」に近いものばかりを読んで、無駄なことに自らの身体を従事させたくないし書くことにより他人の身体をわたしの偏屈な自己顕示欲に傅かせたくないのだけれども、わたしはそうしながらもいまもまた書いている。他人も書く。世界には書きたい人が溢れすぎている。そのせいで生きることが切迫している。出口なし!

 川上未映子さんが断念せずに小説を書き続ける理由として『夢みる力』ということを述べていて、つまりそれは言葉がひとに夢をみさせる力なのだけれども、『完璧な本』という単語がその力によって川上未映子さんをひきつけて川上未映子さんに川上未映子さんの小説を断念させずに『完璧な本』の方向へと書かせているという構造があるという。それはよい。でも凡人が言葉に惑わされすぎるのは健やかに身体として生きるためにはあまりにもしんどい。なんとか活路を見出さなければ。そう、活路を。