山本さん

 山本さんにあったことは2回だけあって山本さんとインターネットを利用して声を交わしたことはそれよりも10回以上多くある。山本さんは天才である。山本さんについて書き始めているのはべつに山本さんについて書かなければならない喫緊の課題があるわけではまったくなくて、文章の練習としてなにかを書こうと考えたときにいちばんめにおもいうかんだ言葉が山本さんだったからというただそれだけの理由しかない。わたしは山本さんが好きである。天皇のほうが山本さんよりも好きで、もし山本さんと天皇のどちらかだけを撃ち殺さなければならないとしたらわたしはちょっとだけ躊躇をしてから山本さんの脳天へ銀の弾丸をぶちこむとおもう。それくらいわたしは山本さんが好きである。

 山本さんにおすすめされた橋本治の本をAmazonで買ってでもおもっていたとおり時間がなくてあまり読み進められないでいてとりあえずあとがきだけは読み終わったのでいまは本文を読んでいる。橋本治がチャンバラ映画について書いた本で山本さんがどうしてわたしにこの本をおすすめしてきたのかはまだうまく把握できてはいないのだけれども、把握するためにも読み進めたい。

 最近は短歌を書いていてとりあえずの短歌を書くのは簡単でツイッターにひゅんひゅんと投稿するとたとえばこういう歌ができる。

 

   あたし皇居。あたしのなかにいるひとは天皇。これからよろしくね。

 

   あたしたぶん前世がスカイツリーだし、ほんとはキスもしたくなかった

 

   もも色のぶたぶたぶたがやってきてピカソのように切り落とされる

 

   うさぎってかわいい。家畜じゃないし、あたしのことを軽蔑しない

 

   ひどいのよピカソは夢の中ですらあたしの耳を舐めまわさない

 

   アイスクリームがアイスクリームであることをやめようする ふざけるな夏 

 

   手をつなぐときに一瞬遅くなる歩みのように死んでゆきたい

 

 わたしが小説を書くほうが短歌を書くよりもわたしにはよいと山本さんに以前インターネットを経由していわれてそれはほんとうにそうなのだなあということをわたしはとみに感じつづけている。短歌をはじめたころからずっとかんがえている。しかしわたしは短歌を、十把ひとからげの短歌を書いている。小説を書かないのは小説を書くための体力とか構成力とかそういうのをなくしてしまったからでもある。たんじゅんにおもしろい小説が書けないからでもあるけれど。短歌を書くと小説が書けなくなるというのはわたしの場合はほんとうにそうで、文章の息が続かない。いまだって長い文章を書き連ねている内に体力がなくなりかけている。これいじょうなにを書くのかよくわからなくなっている。

 文体というのはもじどおりに体で文体がちゃんとしていないと、つまりは体がないともちろん文章は呼吸ができない。文体さえアレば逆に言えば文章はかんたんに息づくことができる。これはアレゴリーなのだけれどもただのアレゴリーと無視していいものでもないだろう。文体が文章を書かせるのだ。で、文体には長文にむく文体と短文にむく文体というものがありわたしの文体はもうだいぶ短文に慣れてしまったような気がする。長距離を走ることのできない筋肉ばかりが鍛えられてしまったかのようだ。あるいは長文をかかないのは単純に長文を書くための時間がなくなってしまったからかもしれなくて、わたしが学籍を失って新潟にみじめに帰ったならばわたしはまた長文の小説を書き始めるようになるのかもしれない。もちろんそれが優れた作品になるかはわからない。でも書く。長文の小説を書かなければならないとおもう。だからわたしはとりあえずわたしに小説を書くべきだという山本さんのことばを信じるし、山本さんにおすすめされた橋本治の本を読もうとおもう。

 山本さんの話だったけれど、山本さんの話は結局しなかった。そういうふうに、山本さんの話をしないというかたちでわたしはたぶんずっと山本さんのことを考えているしこれからも山本さんのことを考えつづけるのだとおもう。山本さんはそういうひとなのだとおもう。嘘だけど。