おおきなものはちいさなものに優れる

近況

 いろいろと環境をととのえるためにひとまずはブログのデザインをあたらしくした。
 これまではちいさな象がたくさんいるデザインだったがごくシンプルなテーマを導入した。
 なにかあたらしいことをはじめられるように日記のような文章を書こうとかんがえた。
 すっかり文章を書くという習慣がなくなってしまったのだった。
 「なにかをやろう」とあたまで考えるのだが、体がぜんぜんちがうことをはじめてしまって、ちぐはぐになる、ということがちかごろ多く、けっこうこまるのだった。

今後

 すっかり短歌の本もよまなくなってひさしいのだが、いろいろとあたらしい本がうまれたり、なくなったりしているようだった。
 そういったできごとについて、備忘録にちかいかたちになるが、書いていければとかんがえた。
 たとえば一首評とか、そういうことである。
 自分のために自分のことを書くことが、わたしたちには必要である。

NUMBER GIRLの配信をみた

 なんというかさいきんはぜんぜんだめである。


 市立の図書館にひさしぶりに遊びに行っておもしろかった。蔵書はややすくなく、古いが、それでもわたしのキャパシティをはるかに凌駕する。
 大学図書館を自由につかえたころと、現在とで、ものを書くまでの〈抵抗〉のようなもののかかり方がだいぶ変わっている。大学図書館をつかえるころはすらすらとものを考え、すらすらとものを書いていたような気がする。いまは、必要な本などはあるのだが、無駄な本が手元にすくなく、うまくものを考えられない。かつてわたしは大学図書館によってものを書かされていただけで、自分の能力というものをまったくもっていなかったのだろうか。知らない。とりあえず、まだうまく現在の環境に適応できないでいる。
 なんとかしないといけない、とおもって、このような日記を書いている。


 NUMBER GIRLライブ配信を見る。
 向井秀徳氏がふざけたようなことをしていて、かっこういいとおもうと同時に、おもしろい/おかしいともおもう。「かっこういい」という感覚はふしぎで、たとえば塚本邦雄や黒瀬珂瀾の〈耽美的〉と呼ばれるようなタイプの歌には、「かっこういい」とおもう一方で、こちらの調子次第で、「はずかしい」に近いような「おもしろい/おかしい」を感じるときがある。かっこういいことはときに恥ずかしくもみえる。逆に、おかしいことができることがかっこうよくおもえるときもまたある。
「かっこういい」ってなんだろう。
「かっこういい」にたいして「うつくしい」という評価もあるが、風景にたいして「うつくしい風景」と述べることがあっても、「かっこういい風景」とはあまり言わないような気がする。


 そんなこともないか。「かっこういい滝」などもある。


「うつくしい」ものにたいして「はずかしい」とか「おもしろい」とおもうことはあまりない(すくなくともわたしは)。「うつくしい」ことは垂直の上昇にたとえると、「かっこういい」ことは水平の移動にたとえることができるのかもしれない。


 そんなこともないのかもしれない。
 つづかない。


「早稲田短歌」の最新号にインタビューが掲載になった。インタビューを受けたのは(石井さんと対談をしたことはあったけれど(非公開))これが初めて(だとおもう)。読むひとにとって、ひとつでもおもしろい部分があればよいのだが。
 とりあえずはこれで掲載待機中の原稿等はなくなりました。あたらしくものを書くしかない。


 先日、「天国」というテーマで小説執筆の依頼があり、しばらくまったく小説を書いていないこともあり悩んだのだが、ものを書くことへの感覚をとりもどすという意味もこめて、依頼を受けることにした。
 まだなにを書くかも考えていないのですが、この日記を書きつつ、考えていこうとおもいます。

デス・スター

 スペクトラルウィザード(最強の魔法をめぐる冒険)を読んでおもしろかった。
 ふつうの物語であれば「最強の魔法」は大量破壊兵器の比喩になってしまうのだけれども(たとえばデス・スターのように)、そうはならないと安心して読んでいた。作者に対する信頼といっていいとおもう。斉藤斎藤さんに「技術的信頼について」という文章があって、その内容は覚えていないので読み返したいのだけれども、作者にたいする技術的信頼をもって読むときとそうでないときで、作品をはじめて読むときの安心感は異なる。
 作品をはじめて読むときと、作品を繰り返して読むときの読者がいだく「感じ」はあきらかに異なっている。読者の所有する「経験」は、目の前のテキストの享受され方にあきらかに影響をあたえる。読書は時間のなかにおける行為である。しかしテキストの効果をテキストのみに還元して分析するようなやりかたでは、このような「経験」の側の効果をとりだすことができない。テキスト分析はテキストを固定した対象であると(暫定的に)みなす。そのような(ある意味で)科学的な態度によってのみあきらかになることは数しれない。だが、そのような態度によって救い出せないものもまた数しれない。
 短歌総合雑誌をいろいろと読むようにすることにした。できれば短歌に関係のないものをたくさん読むようにしたいとおもう。

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つぶれるように向日葵が枯れて

「時間のかかる短歌入門」を書くためにものを書くための練習をする。さいきんはなんだかすべてを忘れてしまっているような感じがある。 たいせつなことがおもいだせない。知識はつかわないとねむってしまって動き出せない。準備体操が必要だ。

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青春はまだまだこない?

 なにかものを書かなければやっていられないとおもう、と同時に、なにもものを書いていられないとおもう。なにかものを考えられているという実感がない。というのは正確に事実をみるならば嘘で、依頼されてものを書いたり、仕事に関わるほうの論文を書いたりしてはいる。なにも生産をしていないわけではない。ものを書いていないわけではない。ではないのだが、もっとほかにやるべきことがあるのではないか、というあせりのような感覚がないといったら嘘になる。わたしの知らないところでさまざまなものが変わっていく。しかし、焦ってなにかよいものが生み出せるかといえばそういうことはない。とにかくやらなければならない、というおもいがある。なにを?

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