ラジオ体操をしたことがないひとのために書くことができるものはあるだろうか
朝、外は曇っていた。急いでいたけど、外階段をおりるとき近隣のマンションのベランダが目にとまった。誰ともわからない誰かの部屋で、カーテンは閉ざされていた。その誰かのベランダには男物の洗濯物がほんのすこしだけ干されていて、一人暮らしだろう、という推測がぼんやりと起こった。
私は気づいたら立ち止まっていた。
そしてすぐ、私は生活のいうなれば実在に打ちのめされた。「実在」、大層な言葉遣いではあるけれど、それを実在だと私は感じていた。私がひとりで生活をしているように、世界ではひとびとが絶えず生きていて、そしてすべてはやるせなく過ぎ去っていくという端的な事実が私をとらえた。
私は私が生きてあることを「宇宙的」にとても嬉しくおもい、またそれと同じくらい「地上的」に疎ましくもおもってみた。すべてがこのまま停止してしまえばあとはもうなにもいらないとおもってみたが、思いは単なる気分にとどまる。そのような気分はある意味、いつものことでもあった。
淡い気分は一瞬で消え去って、私はまた階段をおりはじめた。
ラジオ体操をしたことがないひとのために書くことができるものはあるだろうか、ということをその朝のうちに考えてみたが、なにひとつおもいうかばなかったことをおもいだす。ラジオ体操は放送され続けていて、確認はしていないけれど、きっと明日も放送されるだろう。しばらく私は聴いたことがない。
なぜひとはラジオ体操をしなければいけなかったのだろうか、と言葉にすることに価値はあるだろうか。少なくとも、小学生はラジオ体操を楽しんだり楽しまなかったりして、それはあのひとたちの生活を部分的にでも、構成していたはずだけれども。ラジオ体操という言葉の現実感はいつからのものだろう、そしていつまでだっただろう。私にはもうおもいだせない。
それが私の生活だったこと。そして、無関係である、あるいはあったひともきっと多いこと。
ラジオ体操をしたことがないひとのために書くことができるものはあるだろうか、と繰りかえしここに書いてみて、やはりその先がうかばない。
最近、整理整頓がおっくうになってきて、なんだかめんどうだなー、という気分でいる。そんなだからこの文章はまとまらないし、短歌もだらだらとしてしまう。
人工雪から 抽出されたじんこうをふりかけてすぐ美味しいごはん
ナミビアの首都もわすれてしまうから検索をするだけどむなしい
新聞が新聞紙から産まれてもいいはずなのに廃品にだす
モーニングセットを昼は頼めないことに怒って消費者である
枕なげして枕からいも虫がぶちぶちとでるように口づけ
にっぽんのなかでいちばんうつくしいカレーライスを作ってまたね
ツイッターで今日詠んだものを、表現を改めてここに打ち込みなおして、でもこれが完成版でも無い気がした。そも、完成版がどれかということにあまり興味がわかない。
これが私の作品である、とかそういうことにもいまは興味がなくて、誰かが自分のものとして発表したとしてどうでもいいとおもっている。怒るとしたらあとで怒る。
執着がめんどうになってしまった。
そして、あるいはだけれども、「生活がないことがない」ということに気づくたびおなかのあたりをとても重く感じる。重く感じるのは心かもしれないし、精神、気分、そんななにかかもしれないけれど。
私は生活をしていて、それがなんか不思議で、でもみんな不思議とはおもっていないみたいで、居心地の悪さを「重さ」として感じている。
今日は、ツイッターにちゃんとした投稿をしているひとたちがまぶしくおもえた。そこには生活が感じられるから。どうしてそこまで生活に忠実でいられるのだろう、という素朴な疑惑がうかんできて、でもそれは一時的なものだからツイッターに書こうとはおもえなくて、いまここに私は書いている。
生活を愛するひとたちがかぎかっこつきの「自分たち」の生活を守るためにいろいろな画策をしているようで、それが文明だったり歴史だったりを確定してきたのかもしれない。法に憤ったり、アイドルに投票してみたり、サッカーを楽しく視聴したり、世界を研究したり、愛を言葉にしてみたり、いろいろとみんな生活をしている。
みんながんばれ、と私はおもうのだけれども、そのみんなのなかに私はいない気がする。それでまあいいかな、と言ってられなくて、私も生活をしているけれど。
生活をしなければいけないのだけれども、生活をするための原動力としての、執着や欲望が、不思議さに阻まれてなかなかうまく機能していないのだろう。
この気づきをちゃんと言葉にしてまとめるのはやはりめんどうくさいので、以上の一文を結論として、この記事はここで終わりにする。このブログは自分のためのメモだから、これでいいのだと私はおもう。
とりあえず、日々はとても楽しい、という実感を最後に付記しておく。