2012年5月6日前後について
過去を振りかえりながら日記的な文章を書こうとおもう。例によって、他でもない私自身のために。
2012年5月6日、私は文学フリマというイベントに参加するために東京にいた。正しくは第十四回文学フリマという。早朝、夜行バスを降りる。5:40に新橋駅についた。せまくるしい密室の暑さにやられ、よくねむれなかったことをおぼえている。夜行バスをこころから嫌いだとおもった。となりに見知らぬひとが座る暗闇のなかで、私はひとりきりであるということ。暗闇で視線のないまったくの他人に出会うことは、私たちの想像力を、絶えず試しつづけるのではないか。
そのような顔のない無名の、だが身体のある他者との出会いが他にいくつ数えられるか。
だから、私は疲弊していた。ねむれなかったし息苦しかった。だるかった。だが、生理学的な身体のけだるさは心のはたらきによって忘却される。はじめて参加するいわゆる「同人誌即売会」。しかも一般参加者としてではなく、サークルとして参加する。私は高揚していた。多くのひとに、つまりは意志に出会うことになる。さらにそのほとんどは、つまり私の出会う意志は、例外なく私に向けられるのだ。それは、私の数少ない経験を凌駕していて、予想がまったくつかなかった。困惑する。優れない気分など忘却される。
あるいは、意志は「私たち」に向けられる。
はじめてのサークル参加はひとりではなかった。@suzuchiu、@dot_aiaのふたりが同じサークルだった。@suzuchiuさんと出会うのはたしか二度目、@dot_aiaさんと出会うのははじめてだった。インターネット通話で声を聞いたことは何度もあった。だからこそ不思議だ。他人なのか、他人ではないのか。声は身体なのだろうか。顔のない他人は匿名であるが、声は顔か。あるいは、言葉は顔か。
はじめて出会う、とはどういうことだろう。
10:00、サークル入場。ブースにさまざまを準備した。搬入されていたダンボールをひらくと、白い紙にまかれた、水色の表紙が目に入った。私たちの歌集。手に取ると物質感があった。言葉は物か、私は知らないが、手のなかの重みは感動を生じた。他のふたりはどうおもったのだろう。
11:00、なにもかもよくわからないまま、あっという間に開場となった。そこからはよく覚えていない。次々と、言葉があらわれた。言葉でしか知らないはずのTwitter上の知人たちが、身体としてつぎつぎと、現前しては消えていく。言葉が肉になり、肉は思い出という名の言葉に還っていく。偶然、私たちの歌集を手にとったかたはいたのだろうか? ほとんどはTwitter経由で来た、すでに私たちを知っているひとだった気がする。文学フリマという場所にはたしてどれだけの必然性があるのだろう。それは、電脳上ですでに計算、予告されていた私たちの出会いを、実現するための媒介なのではないかともおもった。偶然性の舞台が自然であるならば、あそこは限りなく人工的な場所だったにちがいない。あの場所でなくてもよかったのだ。たまたま都合がよかっただけのこと。だがもちろん、まったくの人工でもなかっただろう。偶然性の介入は薄いかも知れないが、まったくの無ではなかったはずだから。
最終的な歌集の頒布率は、悪くはなく、だが当初の予想にはわずかにおよばないといったところであった。現在、委託販売を計画している。それが実現すればオンライン上での通販が可能になるだろうから、頒布率はもうすこし向上するだろう。だが次回に向けて、さらなる頒布率の向上のためには、偶然性を引き寄せるある種の「センス」が必要になるのかもしれない。それはデザインであったり、広告であったりするのだろう。たんに内容に限らないなにか、か。私にはよくわからない。
ほぼすべてのサークル参加者は言葉を売っていて、またほぼすべての来場者は言葉を買うことを目的としていた。ひじょうに奇妙な状況におもえた。そして金を媒介に言葉を取引するというのは、なんとも、人工的でよろしいともおもった。どのような理念があったとして、このような現実を否定することはできないだろう。
言葉は欲望にまみれていく。
言葉の意味は必ずしも必要とされていなかったはずだ。意味を、つまりは頒布物の中身を熟慮したうえで購入を決定したひとなどごくごくわずかだっただろうから。重要なのは意味ではなく、その現れ方だったのだろう。記号としてどのように現出するか、そしてそれが来場者をどのように欲望させたかが、購入までの条件だったはずだ。記号内容よりも記号表現、シニフィエよりもシニフィアン。
おそらく、あの会場で行われていたのは欲望の交換だったのだろう。
「売りたい」という欲望と「買いたい」という欲望。あるいは「伝えたい」という欲望と「感じたい」という欲望。前者の媒介は金であり、後者の媒介は言葉だろうが、欲望の中身がなんであったとして結局、欲望の交換であることにかわりはない。
欲望を駆流させるものは、残念ながら本の中身ではない。「買いたい」「感じたい」を生じさせたものはなにか。なぜ、ひとは言葉を欲望するのか。すくなくとも中身、意味ではないはずだ。知らない言葉をひとは買うのだから。
予感、なのだろうか。ひとは未来の意味を予感し、現在の言葉を欲望するのか。だとしたら予感を可能とさせるものは過去の経験なのだろう。Twitterでかつて私たちが放流した言葉が、彼(女)らに経験を生じさせ、予感を形作ったのか。それが欲望として、場において、実現したか。
わからないが。私が会場でみたものは欲望の交換でしかなかったという事実はたしかだろう。金、あるいは言葉によって実現される欲望の交換。舞台はそのように作られていて、それでいい、と私はおもった。
私は現状を肯定する。
16:00に閉場した。そのころには疲労が頂点に達していて、帰りのモノレールは、ただひたすらにねむかった。浜松町駅にて@johnetsuに出会い、彼の腹部を軽くなぐった。彼はメガネをかけていて、背が低かった。その他個人情報については割愛したい。その後、彼含め、Twitter上で交流のあるかたがた何人かと喫茶店に立ち寄ってしばらく話をした。彼を中心に話はすすみ、私は基本的に聞き役だった気がするが、なんにせよねむくてよくおぼえていない。
今回、文学フリマの会場は空調設備が動かせなかったらしく、ひじょうに暑苦しかった。14:00ころに私は軽く熱中症のようになってしまい、会場の外で涼んだりしていた。朝の疲労、睡眠不足のせいでもあっただろう。そして朝、昼、それぞれの疲労が相合わさって夕方の私を襲っていた。ほんとうに、よくおぼえていないのだ。
各位には、失礼をしていないかが気になる。特に@johnetsuには、彼の期待する立派な腹パンをできなかった気がしてならないのだが。
18:00ころには解散した。その日の夜、@suzuchiuさんの家に、@dot_aiaさんと私の二人はおじゃまさせていただいて、鍋をした。「次の文学フリマへの参加どうしますか」、などと話をしながら鍋をつついた。火にかけられた土鍋のなかで、白菜は縮減していった。2lのペットボトルのお茶はどこまでもペットボトルのお茶でしかなかった。そして、私はうれしさを感じていた。2012年5月6日はあとすこしで終わろうとしていて、すべては取り戻せなくなっていく。
私が東京にくることはあと何度あるのだろうとおもった。
何時かわすれたが、@dot_aiaさんをバス停まで見送った。その日私は、@suzuchiuさんの家に泊めていただくことになっていた。帰って、シャワーを借りた。床に布団を敷いた。
睡眠とは何か。考察するまでもなく、私は疲労から、ふかく、ふかくねむりに落ちた。前日の夜行バスとはうってかわって、快適な睡眠を得ることができた。感謝が尽きない。
振り返ってのちに、睡眠という行動をおもった。おもったことをすこしだけここに書く。
知っているひとの家で寝ること。だけれども、深く知っているわけではなく、出会うのはまだ二度目であるひと。睡眠とは極めておそろしい行為だとおもう。殺そうとおもえば殺せるし、殺されようとおもえば殺された。彼の無防備な寝返りをTwitterで私は実況しながら、死について、ようやく考えはじめた。すべてを自然に、つまり自分の意志以外にゆだねるということ、それが睡眠の前提だろう。ねむるとき、私は運命にさらされていた。運命のなかで私は生き延び続けてきた。かつてそうだったし、その日もそうであり、そしてそれから現在までもそうである。私は目覚めることをやめていない。
私は生きている。死ななかった。
ありがとうございました。
それからのことについては特記することがない。2012年5月7日、私は東京を走る電車にのった。東京の路上をてくてくと歩いた。そして飛行機で札幌に帰っていった。それだけのことしかなかった。
帰りついた札幌は肌寒く、スーツケースからコートを取り出して着た。東京にあった汗ばむ陽気は、札幌にはまだ先のことだろうとおもった。埋めようのない距離を実感した。
あの日、私は東京にいた。東京は中心なのだろうか、とうたがっていた。だとすると東京以外は中心以外、つまりは辺境になってしまう。決して、そうではないと私は信じたい。地理においてあるのは差異であり、序列ではないのだと私はねがう。序列をうむのは常に歴史なのではないか。地理において東京は日本の一地方であり、決してそれ以上でも以下でもないのではないか。
私は信じたい。
そしてまた、ここまでふりかざした「東京」という言葉を再考しておもう。ここまで無批判に前提した「東京」なる単一な実体、そんなもの決して存在しないだろう。言論は東京という概念について必要以上に語りたがってしまう。その結果、土地や生活は置き去りにされ、「東京」という概念のみが流通する。批評のなかで、また作品のなかで。新潟に住んでいた私にとって、東京とはこのような言論上の概念でしかなかった。中心的なもの、として東京はあった。だから私はいまも、「東京の郊外」という言葉がなにをさすのか実感をもてないでいる。
しかして、実態は異なっている。
東京と言葉にするとき失われていくものを、私はたぶん知らなかったのだ。いまも私は知らないはずだ。東京の生活を私は知らない。
同様に、「北海道」や「新潟」と言葉にすることで失われるもの、生活もまたあるのだろう。いや、「生活」と表現すること自体がある種の疎外作用にちがいない。言葉はざらついた手袋のようで、すくいとられる現実は絶えず傷つけられてしまう。言葉は野蛮だ。現実は決して汲みつくされないからこのような野蛮はわすれられがちだが、しかし、わすれていいものでもない気がする。
言葉は暴力であり、詩は現実を傷つける。
同様に、私は2012年5月6日にたしかにあった現実を、いま現在絶えず言葉によって傷つけている。
5月6日その日をおもう。言葉からはるか隔てられている現実がある。そこには決してもう到達できないし、そもそも、私たちがかつてそこに存在していたのかも実はあやしい。時間の連続をどこまで信じられるだろうか。しかしそれはたしかにあったのだ。そして確かに言えることとして、私の言葉は、そしてそこから生じる想像は、その現実からはあまりにも遠くなってしまった。もはやその日は想像すらもされない。想像に現れうるものは、ゆがんだまやかしでしかないのだから。
すべては失われてしまった。かつてあった現実たちは、言葉によって、異なったかたちで、ただ一方的に汲まれるだけでしかない。
悲しみを感じることができる。
もっとも、この悲しみをどこまで強調するべきかわからない。失われたものはなにも言わないし言いたいとすらおもわないだろう。だから、傷つけられる現実のために、言葉を自粛すべきなどとはおもえない。破壊への後悔、悲しみ、それに類するひとびとの感情は生理学的な反応でしかないだろう。廃墟はただの物質であり、それ自体はなにも所有しない。野蛮も後悔も、なにかを所有するのはつねに人間の側のみである。だから、壊滅を悔やむひとびとの嘆きは破壊行為となにひとつ変わらない。悲しみは破壊と変わらない。
だから、現実に共感しようとしてはならないのだろう。どのような共感も、過ちにしかならないのだから。現実に感情などない。
私の言葉は続く。続けたい。
奪い去られる現実を前にして私たちにできることはなんだろう、つまり、倫理はいかにして可能かと考えている。言葉に食い荒らされ続ける、かつ、決して汲みつくされない現実がある。現実が言葉に蹂躙されていることははたしてよいことか、わるいことか。あるいは、現実を自然、言葉を人為とおきかえてみる。自然に対して人為はなにをなすべきか。なにが善でなにが悪か。
なぜ野蛮は悪として排除されるか。なぜ環境を保つことが善なのか。それを、ひとの悔恨という生理的反応に、また人類の持続可能性に、科学者は還元することが可能だろう。人類の目的意識のため、野蛮は抑えられねばならない、抑えるほうが経済的であるから、などと。つまり、経済的であることは善いことだと一般的な科学者はいう。功利主義としてこれを整理することができる。
しかし、倫理はこのような功利主義とは別の水準に位置づけられるのではないかと、私はどうしようもなくねがってしまう。野蛮を忌避するもっともな理由として、倫理を、効率性以外に基礎付けることはできないか。
そしてそこから、私たちの言葉をみなおすことはできないのか。私はおろかだから考え続けてしまう。
功利性、経済性ではないものから詩を詠み直せないか、読み直せないか。強烈な倫理によって方向づけられた、野蛮を絶えず忌避する詩が欲しい。それが私の欲望である。野蛮を回避する強烈な倫理、それをもっとも喚起するのは「敬虔」という言葉の感触だろう。神秘家のように詩をつくること。祈ること。言葉を祈りにかえること。そのような詩が可能だろうか。
さてこそ、そのような詩は「自然現象」なのだろうかとおもっている。自然現象は意志をもたない。すべてを産出する。そしてなんの意図もなくすべてを殺す。大災害として、死はわかりやすいかたちで顕現するだろう。なぜ死ななければならなかったのか? 問いかけても問いかけてもすべてはむなしい。そのうちにまた死んでいく、問いかけすらも。自然現象は不条理である。だからこそ、それは経済性も人為も関与しない圧倒的な「善さ」にふれうるのではないか。死すらも乗り越えてゆく原理があるのではないか。
詩。わからないけれど、そのような詩は確実に、私がここまで書いた残念な散文とは、まったく異なったものであるはずだろう。私の現在の振る舞いは、単なる暴力主義者とかわらないのだ。
私はなにをしていたのだろう。しているのだろう。日記などと言い繕って私は。
だから私は、もうこれ以上の乱暴をやめ、ここでキーボードをうつのを止める。
文学フリマへの「私たち」の参加は私個人の経験ではけっしてなく、ある程度の公共性を持った出来事であり、いちおうこの記事はそれへのまとめを計画していた。だからこの記事は削除はせず、公開にしておく。言い訳にしかならないけれど。