永訣の一行

 眠れないので嘘を書こう。

 気のむくまま。

 

 

 最近はランボオの『地獄の季節』を読んでいる。岩波文庫の赤で、訳者は小林秀雄。他に私は新潮文庫の『ランボー詩集』も持っていて、そちらには『地獄の季節』からは一編、『うわごと(その二)』(岩波文庫版では『錯乱Ⅱ』と題されている)のみ収録されている。

 まずは岩波文庫版、『地獄の季節』、その中の『錯乱Ⅱ』から引く。

 

  また見つかった、

  何が、永遠が、

  海と溶け合う太陽が。

   (地獄の季節,小林秀雄訳,岩波文庫,p.44)

 

 流し読んでいる、つまり、「精読」(詩句ひとつひとつの関連情報をたどり(文献で徹底的に調べ)、過去・現在・未来の連関をあばきだし、その時空間的背景を可能な限り理解しようとつとめること)をしていないから、この一節について私は、なにも言及することができない。

 でも、おもしろいと、子供のようにおもっている。

 興味を惹かれた。

 次に、新潮文庫版からも引く。

 

  もう一度探し出したぞ。

  何を? 永遠を。

  それは、太陽と番った

    海だ。

   (ランボー詩集,堀口大学訳,新潮文庫,p.137)

 

 この二つを比較する意図は私にはなく、ただ、おもしろがっている。そう、おもしろい。子どもたちがバッタ採りにたわむれるように、とびはねる詩句にたわむれている。流し読んでばかりいるのだけれども、にやにやとした笑みが常に絶えない。子どものようなしまらない笑みである。

 『また見つかった、何が、永遠が、』、あるいは『もう一度探し出したぞ。何を? 永遠を。』。元となる文章は同じなのに、翻訳を経て、私に理解されるものは全く違う風景だった。それぞれが固有におもしろく、それぞれの違いもまたおもしろい。詩句は、それをつかまえようとする子どもたちの野蛮を逃れ続ける。そして子どもたちは詩句がつかまらないからこそげらげらと笑い駆けまわる。笑いの理由はなぜかって? 説明をすることはできないけれど。

 

 詩を説明することはそもそもできないのではないかとすらおもう。その中身を、あるいはその効果を。説明によってあばきだされるはずの、合理的、一般的な解釈などあるのだろうか。詩を前にしたとき可能になるのは、科学的な「相関関係」ではなく、私とあなたの「つながり」なのではないか。詩の前にしてたたずむ「私」と、詩という根源的な「他者」とのあいだで。他者について語ろうと/画定しようとする言葉は、私には野蛮にしかおもえない。

 私はランボオを読み、笑っている。なぜか? そんなことはわからないし、どうでもいいとすらおもう。子どもが楽しそうに遊んでいて、なぜ遊ぶのかとは考えない。ただ、遊べばいいだろう。もちろん、分析が無意味とはおもわない。子どもの遊びを科学すること、たとえば、発達心理学は無意味ではないだろう。それは社会に寄与するはずだし、豊かな実りをもたらすだろう。しかし、それは結局遊びを理解(解体)などしない。だから私は、心理学よりも、詩を、遊びをいまはもとめる。

 詩とは何か。それはたんなるテクストではないだろう。とびはねるテクスト/昆虫のみが、詩であるはずがないと信じたい。昆虫を追いかける子どもたちのたわむれ、それが無くて何になるだろうか。

 ランボオの詩のみがあるのではなく、「私」の反応をも含めてが、詩という現象なのではないか。

 テクストのみならず、現象としての 詩。

 

 

 さてこそ、導入が長くなってしまったが、「永訣の一行」とこの記事を題した。永訣とは調べてみたところ、「永遠に別れること。死別すること」という意味らしい。この言葉を聞いた/読んだことは、宮沢賢治の『永訣の朝』に関連してのみなのだけれども、その一瞬が、ずっと頭から離れない。

 

  けふのうちに

  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

    (あめゆじゆとてちてけんじや)

   (春と修羅,永訣の朝,宮沢賢治,http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html

 

 永訣の一行。不眠の夜、突然にこの言葉が浮かんで、なんとかこれを説明しようと理路の行く先を探している。永訣、永遠の別れ、その一行とははたしてなにか。

 いやそもそも、根本的なところから考えなければならないのかもしれない。詩とは何か。詩にとって、一行とはなにか。

 考えよう。

 

 個別な実体としての「詩」なるものは、存在しないと私はおもう。個別なテクストはあるだろう。しかしテクストはそれだけでは詩にはなりえない。詩とは、関係のなかになりたつ現象ではないか。読者とテクストの、つまり「私」と「あなた」の関係。

 「私」と「あなた」。「私」とは読者だ。では「あなた」とは誰か。それは決して作者のことではない。すくなくとも、私はそうはおもわない。読者が作者の意図を読み取ることが、詩という現象のすべてなのか。そんなはずはないと私は信じる。そんなつまらないものであって欲しくない。「あなた」とはあくまでもテクストのことだ。読者という個別な存在が、テクストという個別な存在と、出会い、関係をとりむすぶこと。私にとって、詩とはそのような「現象」として理解される。テクストと読者との、「情」の交換(感情、情報、情動……)。きらめく閃光? あるいは、一方的な破局。

 だから「作者」もまた「読者」である。純粋な作者など私は信じない。すくなくとも今、この文章を書くにあたって、私は読者としてここにある。自分の考えを読んでいる、読みながら書いている、書きながら読んでいる。おそらく、「テクスト論」なるものを専門的に勉強すれば、ここで「作者の死」という専門用語を用いることができるのだろうが、私には残念ながらその素養がない。最近は電気工学を勉強している。文学理論はほとんど知らない。

 作者は読者であるとしよう。では、作者にとって詩とは何か。作者はなぜ、詩を作るのか。

 

 谷川俊太郎穂村弘の対談を読んだことがあって、『文藝 2009年 夏号』に掲載されているのだけれども、そこでの谷川俊太郎の言葉が強く印象に残っている。

 なぜ、詩を作るのか。なぜ、詩によって自分の言葉を伝え、人を動かしてもよいと言えるのか。人を動かすこと。それは言ってみれば、ある種の暴力である。詩とは、他者への介入であるから。ではなぜ、それをしてもよいと言えるのか。

 なぜ暴力は許されるのか。

 谷川俊太郎はこう答える。

 

 『食うために必要だからです』

 

 この言葉を雑誌で読んだとき、私はとてもうれしくおもった。今でも覚えている。当時使っていたメモ帳には、ボールペンで大きくこの言葉が書き残されていた。

 詩を書くこと。つまり、テクストを産み出すこと。それはある意味では、テクストという他者を「誕生」させることである。そしてテクストは作者を超え出て、読者に、さまざまな他者に干渉していく。よい影響を与えることも、悪い影響を与えることも、ひとしくありうるはずだろう。そしてそのどちらも暴力である。「私」が産んだものが人を変えていく。

 暴力である。それなのになぜ詩人は書くのか。

 

 詩とは普通、メッセージを「伝える」ものと考えられているに違いない。メッセージとはなにか。例えばそれは、「私」=「作者」自身の感情だろう。私の思い出、私の恋愛、私の苦悩、私の絶望、私、私、私。インターネットで詩を探せば、「私の展覧会」がいつ、どこにでもある。そのような「私」意識を突き動かすものはなにか。おそらく、それは欲望だろう。

 誰かとつながりたいということ。誰かに認めてもらいたいということ。何かを「したい」と望むこと。決して満たされることない、~したい。そのようなものはすべて「欲望」である。人は欲望に囚われている。欲望の奴隷であると言っていいかもしれない。欲望はときに享楽を求める。そして欲望はときに、詩を書かせるのだろう。

 そしてそれは、結局のところ暴力だ。欲望は対象を所有しようとするから。欲望によって書かれる詩が、ふくれあがっていく「私」がある。

 

 しかし一方で、谷川俊太郎の動機は違うとおもう。「食うため」。これは欲望だろうか。いや、それは欲望ですらなく、前人間的な、欲求なのだろう。欲望は際限なく膨れ上がる。欲求は違う。食べること、それは根本的な生理的欲求である。つまりは生きるために必要なこと。欲求は自らの限界を知る。

 食うためとは、生きるためである。谷川俊太郎は生きるために詩を書いているのだろう。それも「生きるため」といっても、「詩のなかで私は生き続けたい」とか不透明な神秘論には依拠していない。ただ詩によって金を稼ぐ、そしてそれによって生活の糧を得るために彼は詩を書いているのだろう。

 だから谷川俊太郎の詩はおそらく、欲望に基づく「暴力」ではないのだとおもう。ではそれはなにか。それはある種の「自然現象」だと私はおもう。天災と呼び変えてもいいだろう。天災は多くの人を殺しうる。圧倒的な破壊力を持つことがある。しかしそれは人間による「暴力」とは根本的に異なっている。天災には意図が存在しない。だからこそそれは詩になりうるのではないか。

 欲望によって書かれる詩があるだろう。それは意図にまみれてしまった、ある種の暴力としてのみ存在する。しかしそれとは全く異なった詩があるのではないか。欲求によって産み出されてしまった詩。意図を持たない、だから倫理を持たない詩。

 詩とは、このような自然現象としても書かれるものなのではないか。そして私は、「優れた詩」なるものがもしあるとするならばだが、それはこのような詩だとおもっている。だから私は谷川俊太郎という自然現象をとても尊いものにおもっている。

 

 ここまでの、とりあえずの結論をまとめる。

 詩人はなぜ詩を書くのか。特に、「優れた詩人」について。

 それは、そのような自然現象であるから。作者などもはやそこにはいない。意図などない。私などいない。

 

 

 さて、「永訣の一行」という言葉であった。詩を書くことが自然現象であるなら、はたしてこの言葉はどのように展開できるのか。

 一行。詩。自然現象。詩は自然現象であるならば、そのなかにおける「一瞬の光景」が、詩における一行なのだろう。

 天災の一瞬。報道写真を思い浮かべるのが一番早いだろうけれども、写真は瞬間の比喩として、どこか不適当であるとおもう。報道写真には「私」がいない。だが、「私」の天災の一瞬には、どうしようもなく「私」がとらわれている。私は世界の内においてのみ、天災を経験することができるのだから。

 「私」の一瞬を想わなければならない。

 テクストを読者が読むという現象がある。ここで私が述べているところの詩なるもの、そのような詩は自然現象であり、そこにおいて生じる一瞬一瞬がすべて詩における「一行」なのだろう。

 

 ではこの「自然現象の一瞬」としての「一行」に、「永訣」という概念を接木しよう。

 そもそも、私はなぜ「永訣の一行」などという言葉をおもいついたのか。詩を作ること、作者のことを考えていた。そして、詩のことを考えていた。ランボーのことを。宮沢賢治のことを。あるいは、谷川俊太郎のことを。

 岩波文庫の表表紙には作品紹介が書かれていることが多い。手元の『地獄の季節』から、その紹介文を引用したい。

 

 『16歳にして第一級の詩をうみだし、数年のうちに他の文学者の一生にも比すべき文学的燃焼をなしとげて彗星のごとく消え去った詩人ランボオ(1854-91)。ヴェルレーヌが「非凡な心理的自伝」と評した散文詩「地獄の季節」は彼が文学にたたきつけた絶縁状であり、若き天才の圧縮された文学的生涯のすべてがここに結晶している。』

   (地獄の季節,小林秀雄訳,岩波文庫

 

 ランボーは「文学的燃焼」をなしとげ、「彗星」のごとく消え去ったという。はたして、なぜか。詩を書くことが自然現象であるのならば、そこから離脱するということなどはたして可能なのだろうか。

 『地獄の季節』を読みながら私はこのようにおもっていた。おもわざるを得なかった。私はランボーのことなどまったく知らない。作品も流し読みしかしていない。彼の生涯も、文庫解説程度でしか読んでいない。

 だからこそ、なのだろうか。詩をやめることが頭から離れない。

 ここから、「永訣」についての想像がはじまる。

 永遠の別れ。あるいは死別。

 詩から、永遠に別れること。

 

 

  わたくしといふ現象は

  仮定された有機交流電燈の

  ひとつの青い照明です

  (あらゆる透明な幽霊の複合体)

   (春と修羅,序,宮沢賢治,http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html

 

 詩を考えるとき、私はいつも、宮沢賢治の『春と修羅』の『序』を思い出す。

 あるいは次の一行を。

 

   おれはひとりの修羅なのだ

   (春と修羅,(mental sketch modified))

 

 宮沢賢治を媒介にして、永訣という言葉と、詩という概念は、私の中で結びつく。詩とは宮沢賢治なのではないかとすらおもう(もちろんこれは妄言である)。

 ランボーを想い、詩を想った。詩を想い、宮沢賢治を想った。そこで概念が結晶し、「永訣の一行」という言葉に至ったのだ。

 私には、いま、「永訣の一行」という仮説がある。どういうことか。端的に述べよう。

 

 詩人が詩人をやめるのは、自分のための「一行」に、出会ってしまったときなのではないか。

 

 

 仮説を検討する。

 再びさきほどの『文藝』に戻ると、谷川俊太郎穂村弘の対談の中で、谷川はこんなことを言う。

 『吉本隆明の有名な言葉があるじゃないですか、「世界を凍りつかせる一行」だっけ。あれを読んだときは「おっ、これは!」と思ったけど、今はまったく思わない(笑)。』

 谷川は、自分の言葉が、永遠に残ることを夢見ないという。谷川のこの言葉に対し、穂村は、すくなくとも言葉の上で、驚愕する。『ショックを受ける』、と彼は言う。普通は自分の書いたものが一行なりとも残って欲しいと望むのではないか、それが根深い欲求なのではないか。穂村がこのように問いかけたとき、谷川は答える。

 『もう、全部流れ去っていくものでいい。』

 

 いま、『文藝』を書棚から掘り出して文章を引用しはじめたのだけれども、偶然、このくだりに目がとまった。「永訣の一行」を布団のなかで想いついたとき、「世界を凍りつかせる一行」という言葉は、まったく、私のなかにはなかったのだが。読んではいたはずだ。だから、忘れていたのだろう。

 そして、思い出したのかもしれない。続けよう。

 

 谷川はなぜ、詩人で有り続けられるのか。その理由はここにある気がする。つまり、彼は「一行」を信じていないから。吉本隆明の著作は読んだことがないから「世界凍りつかせる一行」という言葉がなにを示すのか私はわからない。だけどそれは、私のおもった「永訣の一行」と、ほとんど変わらないものなのではないか。

 世界を凍りつかせてしまったとき、もはや、詩人が生きるべき世界はなくなる。詩人が向かい合うべきものはなくなる。だとすれば、彼は、彼女は、もはや詩をつくる理由をもたない。凍りついてしまった? いや、終わってしまったというべきかもしれない。凍結もまた自然現象であるのだから、比喩としてはまだ不十分だろう。それに対して終わった世界には、自然現象がもはや必要とされない。すべての自然現象の消失が、すなわち世界の終わりであるのだから。そしてそこには当然詩もない。詩という自然現象もまた消滅する。だからこそ世界を終わらせる一行によって、詩人は詩人でいられなくなる。

 「永訣の一行」とはつまり、これではないのか。

 世界を終わらせる一行のことではないのか。

 ランボーは世界を終わらせたのではないか。いまの私は、そう信じる。

 

 「永訣の一行」とは「世界を終わらせる一行」である。このように結論とすることもできる。 

 しかし、これを結論とはしたくない。

 世界などはたして終わるのだろうかと、ここに問おう。決まっている。終わるはずがない。

 

 宇宙は終わると言われている。しかし宇宙の消失は決して世界の終わりではない。宇宙が消えて、すべてが無に還ったとしよう。しかしそれでも、全くの無から、新しい宇宙が生まれることがあるのかもしれない。宇宙の誕生はまだ謎に包まれている。私は宇宙論には詳しくないから、これ以上の言及は避けようとおもう。ただひとつ言えることとして、無は、世界の終わりではないはずだ。

 だからこそ世界は終わらない。

 だとすれば世界を終わらせる一行など不可能なのではないか。それではランボーははたして何を終わらせたのか。

 

 世界の複数化。

 世界がいくつあるのか、私にはわからない。物理学にとって世界はひとつだろうけれども、詩人にとって、はたしてどうであるのか。そもそも「世界」など存在するのか。

 あるのは、「私にとっての世界」ではないのか? これが私の疑いである。

 物理学が前提とするたったひとつの均一な物質的世界、そのような概念が、おそらくはもっとも一般的だろう。しかしそれを「信仰」してよいのか、私にはまだよくわからない。そのような世界ははたして「誰にとっての世界」なのか。誰がそれを保証するのか。誰がそれを観察するのか。私にはよくわからないのだ。

 物理学的な物質世界は、それを保証するものを持たない気がする。かつては神が保証したのかもしれない。だが、いまや、浮かんでいる。主観性によって基礎づけられない浮遊した「対象そのもの」を、私は、うまく信じられない。すべての対象物は、「誰かにとっての-何か」という形でしか、基礎づけられないのではないかとおもっている。すくなくとも、現段階ではそのように信じている。

 だからこそ、一般的な言葉でイメージされる、存在物の総体としての「世界」、そのようなものにはあまり私は近づけない。世界は、「誰かにとっての世界」という形でしか、可能にならないのではないか。

 私はこのように考えている。そしてこう考えると、「永訣の一行」についてうまく理解できる。

 

 ランボーはたしかに世界を終わらせたのだ。しかしそれは、複数化している世界のうちのひとつ、「ランボーにとっての世界」でしかないのだろう。それでも彼にとっては世界だった。彼の世界は終わったのだ。そして私たちにとっては、まったくの無意味でしかない。

 あるいは、谷川俊太郎は「世界の終わり」を信じないのだろう。彼にとっては世界とはきっと、驚嘆すべき永遠性であるに違いない。だからこそ、彼はいつまでも詩人であり続けているのではないか。「谷川俊太郎にとっての世界」は、いつまでも自然現象に満ち溢れる。

 世界を終わらせる一行とはあくまでも「私にとっての世界」を終わらせる一行でしかない。他者からすれば、とるに足らない一行かもしれない。「誰かにとっての世界」が終わったことなど、決して知覚することができないのだ。

 しかしそれでも、それはやはり、世界を終わらせる「永訣の一行」なのだ。

 

 第二の結論をまとめよう。 

 「永訣の一行」に至ったとき、つまり、「私にとっての世界」を言葉によって終わらせてしまったとき、詩人は詩人でいられなくなる。

 長かった。これで、ほとんど終わりだ。

 

 最後に、「世界の複数化」についての批判をおもってみる。このような考えは、安易な相対主義なのではないかと、きっと批判があるだろう。いや、そうではないのだ。

 「誰かにとっての世界」は、「誰か」の数だけ存在する。たとえばその「誰か」とは人間だけではないだろう。動物も含まれる。植物も含まれる。あるいは機械も。あるいは無機物も。あるいは神も含まれるだろう。「誰かにとっての世界」は、文字通り無数にあるだろう。しかしそのすべて、共通する構造をもっている。すなわち、「誰か」が「世界」を「把握」するというという構造だ。そして、世界が誰かに現れ出る、という現象がある。

 私がおもうに、このような「現象」を可能にする、共通の「地平」があるのではないか。それこそが相対主義を否定するものなのではないかとおもう。ここでいう「地平」は、物理学の前提する物質的世界とはまったく異なった存在である。いや、「地平」はそもそも存在ですらないだろう。決して対象とされることがないもの。存在するとは別のかたち、としかいいようのない仕方で「ある」われわれの「地平」。すべての現象を可能にする「場」。そのような「共同性の場」としての「地平」があるのではないか。

 「共同性の場」においては相対主義は成り立たない。だからこそ、世界の複数化は決して相対主義ではない。

 

 

 さて。もういいだろう。ここまで書いて理路が尽きた。そろそろこの記事も終わりにしよう。まったくの書き溜めなしに流れにまかせて書き始めたのだけれども、そして非常に、あまりにも長くなってしまったのだけれども、それだけの価値はあったとおもう。予期せずして最近考えていたことをまとめることができた気がする。

 最近考えていたこと、ひとつは詩について。「私」に寄らずに書くということ。そして、詩人はなぜ書きはじめるのか。なぜ書くことをやめるのか。

 もうひとつは思想についてである。共同性と個別性について。こちらは、もうすこし掘り下げて、というよりも厳密に、どこかで書くべきかもしれない。いまはまだアイデアスケッチにとどまっている。でも、書くべき方向性は見失っていない。

 

 記事を書き終えた。まとめは終えた。これから私のするべきことを考えている。理論は十分にあるのだけれども、残念ながら私には、実践がまったく伴っていない。私は詩をおもっている。だが私はまだ詩を書くための十分な技術を身につけていない。

 私は実践をするべきなのだ。

 しかし詩を書こうと、特に意識する必要はないのだろう。私が詩を書くとき、必要性ではなくて、必然性が訪れるだろうから。自然現象としての詩が私を貫流するのではないか。なんとなくだが、そのような予感がある。詩を書こうと意識せずとも、詩を書いてしまうような気がする。流れに任せて、もうしばらくは、詩を書き続けてみたい。すくなくとも詩を書けるうちは。書きたいと私がおもえるうちは。

 言葉とたわむれていられるうちは。

 そしていつしか、私は私だけの、永訣の一行にたどり着くのかもしれない。わからないけれど。

 

 その時を待っている。