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毎日がケーキ

 先日、第三十三回現代短歌評論賞という由緒ただしき賞をさずかりました。ありがとうございました。じょーねつというひとには「かみはるには評論は向かない」とずっと言われていて、たしかに私は評論のような線的な文章を書くのが苦手でなかなか苦労して、なんとかふつうに読める文章を書くように(擬態しながら、というきもちで)書くようなかたちで書いたものでしたが賞をいただけるという栄誉に浴し、うれしいというきもちと、安心したというきもちと、これからは死ぬまで「あの現代短歌評論賞の……」というまくらことばがわたしじしんにはつくわけで、であるからこそ、賞の名にはじない立派なじんぶつにならなくてはなあとおもうしだいであります。

 

 受賞論文は「歌とテクストの相克」といい、書きたいことがおおくあり道がそれそうになるのを、無理に線的になるようにカットカットしながら書いた結果選考会では『論としての基本の部分がきちっとシンプルにできていて』(佐佐木幸綱)よいというふうに言ってもらえたのでよかったなとおもいます。それで、その論文についてはでもわかりにくい部分や、インターネット上の反応をみて、伝わっていないかもしれないとおもう部分、それから、それから考えたことなどがあるので(こういう雑文を総合誌上に載せてもらえるとはおもえないし、またこういう雑文をすきこのんで載せてくれる電子メディアもないとおもうので)日記に書いてみたいとおもいました。

 

 まず、「歌とテクストの相克」ということで短歌には「テクスト」と「歌」というふたつの側面があり、*1「テクスト」はそれ自体で存在するものであるのに対し、「歌」は「身体」があってはじめて可能になるものである、という問題があります。言い換えれば、「テクスト」はバベルの図書館におさめられていて、過去、未来に通じて常に存在する(ときには「不在」というかたちで存在する。まだ書かれていない小説は「不在」というかたちでここにある)遍時間的な存在であるわけですが、一方で「歌」ははじまりがあって終わりがあり、一定の時間的な幅のなかにしか存在できない。これは「テクスト」はそれ自体が「文体」という「身体」をもつ「主体」であるのに対し「歌」はそれ自体は身体をもたない、物質ではない、「歌」は時間的な現象である、ということに由来するのだとおもいます。

 

 それで、コーヒーを飲んでしまってねむれないので続きを書きます。

 

 たとえばわたしのツイッタ―があって、ツイッタ―でわたしは毎日おおくのひとの発言を目にするわけですが、それが「人」である保証はなんだろう。「人」は「人体」を持っていて、わたしたちは「人体」が動いていれば「人」が生きているのだと感じるわけですが、「文」は同じく「文体」をもち、というよりも「人体」をもたない「人」というのが単なる概念であるというのと同じ意味で「文体」をもたない「文」というのは概念であるわけですが、ツイッタ―上で、わたしは日々「文体」がつぎつぎと生起することを目にしています。ぎゃくにいえば、学校で、職場で、街角で出会うということは「人体」が生起するという体験です。わたしたちは生起する「人体」を目にしてそのむこうに「人」という主体がそこにある、つまりその「人体」が生きていることをおもうわけですが、同様にしてツイッタ―上ではまず「文体」を前にして「文」をおもいます。個々の「文」が主体として立ち現れます。そしてその「文」を思考している存在者として「人」へと考えをのばします。「人」が複数の「文」をたばねていて、複数の「文」の束、すなわち複数の投稿がその「人」のリアリティを担保しているのではないのかなあということを最近は考えています。目の前のひとが死ぬということは「人体」が運動をやめ、分子生物学的に言えば動的な平衡状態がやぶれて、「人体」の生起がとまり、「人体」がひとつの物質に固着してしまうということですが、「人」が死んで投稿がとまってしまったツイッタ―上では「人体」のかわりに「文体」の生起がとまるわけです。

 なにがいいたいかというと、「文」も「人」もともに「主体」としては等価であるということがいいたいわけですが*2、これについてはのちのちもうすこしわかりやすく解きほぐす必要があるとおもいます。

 

 で、「テクスト論」が必要になる、つまり「作者の死」や「主体の死」が必要になるのはなぜなのかといえば「主体」というものがある種の幻想だからであるわけだととりあえずは簡略化していうことができるのではないのかなとおもいます。構造主義の時代であれば「構造」こそが「主体」を生み出すものであり、まずは「構造」が先にあって、それから「主体」がたちあらわれる、というような議論の筋になって、先に「主体」があり「主体」がみずからの主観性をもとにして世界を構築していく、「主体」がすべて、というのは近代に生み出された幻想である、というのが現代思想のキーポイントかなとおもいます。ここでたとえば世界の規定に「言語」を置くのであればまずは「言語」が存在し、「言語」によって「主体」がつくりあげられる、というような話の筋になる。そしてこのような認識はおおむね正しいのだとおもいます。

 で。現象学の立場でいうと世界の規定にあるのは「超越論的主観性」というものになるそうですが、これはデカルトのいう「われおもうゆえにわれあり」の「われ」というよりは、「おもう」の作用に近しいそうです*3。「超越論的主観性」は場合によっては「間主観性」ともいうことができ、まずはなにかを「おもう」作用をすることのできる「場」が存在し、「場」は「間主観的な場」、すなわち他者の存在を前提として成り立っている「場」であって、その「場」においてのちのちに経験の束のようなものとして「主観性」が立ち上げられてくる、ということになるかとおもいます。ここで重要なのは「主観性」がたちあがるまえには「他者」の存在がすでにあるということです。まず「われ」がいるのではなく、まずは「あなたたち」がいる。「われ」よりも「あなたたち」が先だつ。

 

 テクスト論以前においては「作品」は「作者」の身体の延長みたいなもので「作者」の意図をよみとくことがすなわち「作品」を読み解くことだったわけですが、テクスト論は「作品」を「作者」から切り離して考えます。するとどうなるか。「作品」はそれ自体が世界のなかの「主体」*4となり、「作者」と並列して存在することになります。そのときに作品を読むということはどういう経験になるでしょうか。狭義のテクスト論者ならば「作者」の伝記的情報にふれて作品を読むということはご法度になるかとおもいますが、しかし「作者」も「作品」と等価の存在であるならば、それらを切り離して読むこともできるけれど、切り離さないで読むこともできるわけです。「文」と「人」を切り離すことのむずかしさを先に述べましたが、「文」が「人」であるというのと同じ意味で、「人」はまた「文」のような存在であり、「作者」と「作品」はそれぞれ「文」と「文」として相互に参照しあいます。ここにおいてついに「間テクスト性」と呼ばれる概念が参照されます。テクストをそれ自体で単離して*5客観的に扱えるようにするのが狭義のテクスト論であるとするならば、「でもテクストとテクストのあいだには相互に参照があって単離をするのは現実に即さないんじゃないか」と考えるのが「間テクスト性」の思想であるとわたしはいま現在考えているわけですが*6、このとき「作者」は「作品」とは無関係の「文」のひとつとして、「テクスト論」の範疇内で扱えるものになります。

 そして「作品」と「作者」の結びつきを論じることができるわけですがそこにおいて主題となるのは「作者」ではなく「読者」の問題であり、テクスト論である以上「読み」こそが重要になります。テクスト論以前の批評が「作者論」であるとするならばやはりここにおいては「読者論」に力点が置かれるわけです。

 

 それで、短歌のはなしに戻ると「歌とテクストの相克」は「歌」と「テクスト」のふたつがあって短歌においては「歌」のほうが大事だよね、と述べようとした論文ではまったくなく、「歌」と「テクスト」の相克を乗り越えて「歌でありかつテクストである」ものを読むことのできるテクスト論的な視座を提供したい、という動機のもとで書かれた論文でした。もちろんそれが本文のなかで書ききれているかというとそうはいえないわけですが。それでも、本文に書いたように重要なのは「テクスト」でありかつ「歌」であるという短歌について『この矛盾を前提として引き受け』ていくことだというのが著者のかわりない立場であるということについては(読者論に力点がおかれる、と述べておいてなんですが)述べさせておいていただけたらなあとおもいます。

 

 さてこそ「歌とテクストの相克」の本文にもどると本郷短歌会の服部恵典さんというとてもすぐれたひとがいて、服部さんにツイッタ―ですこし声をかけてみたら「歌とテクストの相克」にたいする批判をブログに書いてくれてとてもありがたいとおもっていて(ブスは天寿を全うできる : 三上春海「歌とテクストの相克」への批判)、ちゃんとした返答はこんな混沌とした記事ではなくて別にまとめて書いたほうがいいなあ、それでその服部さんによる批判にたいしてすこし返答を書いてみたいなとかんがえています(そもそもはこれが書きたかったのだった)。

 服部さんは上のブログのなかで『「作者の死」を論じたことで有名なロラン・バルトを引きながら、「作者に関する情報なしでテクストのみを与えられたとき、私たちはときにテクストの文体から、作者のパーソナリティについて想像を働かせてしまう」と述べるのは相当危うい論理です。』と書いているわけですがここについてはほとんど同意できる部分はないかなあ、とおもいます。まずロラン・バルトの『テクストは人間の形をしている。それは顔だろうか。肉体のアナグラムだろうか。そうだ。ただし、エロティックな肉体のアナグラムだ』という言葉をわたしは「歌とテクストの相克」のなかに引用したわけですが、ここと服部さんの引用部分はたぶん論理的にはつながっていない部分です。『作者に関する情報なしでテクストのみを与えられたとき、私たちはときにテクストの文体から、作者のパーソナリティについて想像を働かせてしまう』という部分についてはロラン・バルトとは関係なく、一般論として読んでみるといい部分ではないかなあとおもいます。そしてそのうえで、「文体」を「主体」にするのと同じように(先に書いたように)「作者」をまた「文」に還元しまえば(というか還元することができるので)、ロラン・バルトの「作者の死」と「文体からパーソナリティについて創造を働かせてしまう」ことについてはちゃんと共存します。

 そう、わたしは服部さんのことをほとんど「文」を通してしか知らないし、服部さんもまたわたしのことをほとんど「文」を通してしか知りません。わたしは服部さんという「作者」をツイッタ―や評論などの「文」の集積としてイメージしていますし、肉体もまた記号の一種でしかないのかもしれません。であればこそ、「作者の死」を経たうえでなお、「文体」から「作者という文」へと橋渡しがおこなわれることは可能です。

 

『結局この評論は、なぜ短歌の読者が「文体の歌声」を「作者の歌声」として聞いてしまうのかということ、すなわち「誰かの歌声が聞こえたとき、私たちはその歌声の向こう側に、それを歌った人間がたったひとり存在することをおもってしまう」というときの「たったひとり」を「作中主体」ではなく「作者」として想像してしまう力学を、明らかにできていないように思います。』

 という批判については正しいとおもいます。この評論のなかでは「文体の歌声」が「作者の歌声」として読者に読まれてしまうメカニズムについては触れることができていません。この点については論文を投稿してのち、かんがえている部分でした。

 ひとついえることとして、これはツイッタ―に書いたことですが、小説には小説のなかに「主人公」がいてさらに「語り手」という位相もまた存在します。一人称の小説では「主人公」は「語り手」と一致するし、三人称の小説では多くの場合一致しません。この「語り手」がいるからこそ「主人公」をめぐるこの物語はだれにも語られずに消え失せるということをまぬかれてこうしてここに小説として存在するのだ(もちろん実際には「作者」がその小説を書いたから存在するのだけれども)、という担保のようなものが「語り手」の想定によって行われます。そして「語り手」はまたときによって小説の外部にいる「作者」と一致したり、一致しなかったりします。この「作者」という役割はまた(読者は直接出会うことのできない)「生活者」によって担われています。「主人公」「語り手」「作者」「生活者」という四つの異なる位相があり、これらは一致したりしなかったりする。そしてときに小説の外部の存在である「作者」が「語り手」や「主人公」として小説の内部に出張してこようとする。

 この四つの区分をまた短歌に適用していると、短歌において、歌のなかの「作中主体」、さらにその作中主体の状況を作中で歌っている「歌い手」、作品の外部存在である「歌人」「生活者」という四つの位相が想定されてしかるべきです。ですが短歌においては、おそらくその詩形の短さゆえに読者の読みがそこまで深くなる必然性がないため、「歌い手」という位相についてはふつう想定されることがありません。多くの場合わたしたちは「歌人」が「歌い手」を生み出して「歌い手」が57577の韻律にのせて「作中主体」のことを歌っている、というまわりくどい読み方をするのではなくて、「歌人」が57577の韻律にのせて「作中主体」のことを歌っている、と考えます。このとき、「歌」はまずは「作品」の内部において歌われてしかるべきものであるはずですが、「作品」の外部の存在であるはずだった「歌人」が「歌い手」として「作品」の内部まで踏み込んでくる、という越境のような状況が生じます。これこそが『なぜ短歌の読者が「文体の歌声」を「作者の歌声」として聞いてしまうのか』の答えではないかな、といまは考えています。

 しかし、このとき読者が読もうとするのは「文体の歌声」なのか「作中主体の歌声」なのか「歌い手の歌声」なのか「歌人の歌声」なのか、というのはどう考えればいいのでしょう。「文体の歌声」というのはしいていうなれば「歌い手の歌声」に近いもので、でも「歌い手」というものをわたしたちは考えることがなかったのでそれについて言及することがこれまでできず、このため「歌い手の歌声」はときによって「作中主体の歌声」に分配されたり「歌人の歌声」に分配されたりしてきた、という風にはいえるのでしょうか。やっぱり違うかもしれない。「文体の歌声」はもうすこしこう全体をおおうフィルムのようなものなのかもしれない。もうすこし考えてみます。

 

 「文体」という概念をわたしがまだ扱い切れていない感じがのこります。ですが、服部さんのもうひとつの指摘についても書いておきます。

『年が若くなるにつれ(時が経つにつれ)、作者=作中主体という等式が成り立たないということと、「共同体の声/個体の声」の議論は、どう整合的に繋がるんでしょうか。』

 まずこのふたつはそれぞれ別々の現象だとわたしは考えます。「作者」と「作中主体」を切り離すのは狭義のテクスト論の影響であるのに対し、「共同体の声/個体の声」の話はテクスト論とは直接には関係する話ではないと考えます。服部さんが()で補足されているようにテクスト論的な考え方をあたりまえに大学などでおそわるようになった近年において*7作者=作中主体という等式があまり前提されなくなったのであり、年齢の若さというよりも時代背景の違いのせいでしょう。

「共同体の声/個体の声」についてもやはり時代背景の違いのせいと考えられますが、ここで「文体」という概念について考えると、そもそも「文体」には「近代文語文体」とか「現代口語文体」とか呼ばれる「共同体の文体」という側面と「谷崎潤一郎の文体」とか「大江健三郎の文体」とか呼ばれる「個人の文体」という側面があります。そして万葉調とかアララギ調とか「共同体の文体」をトレースすることが自分独自の表現をするよりも重要だ、という時代がたしかにあった(もちろん斉藤茂吉の文体などは「個体の文体」としても卓越しているわけですが)。

 一方で近年は短歌に関してこのような「規範的な文体」をおもい浮かべることができません。わたしたちはそれぞれにあたらしい文体を考えるしかない。わたしたちには「個体の声」しかない。

 以上のように、このふたつはそれぞれ別々の時代背景をうけての変化であるとおもうのですが、どうでしょうか。

 でも。「文体」の話をここで「声」の話として拡張すると「文体」が「作者」と「作中主体」の問題にもなってくるわけですね。わたしの論文はそういう論文でした。やはり「文体の歌声」というのは「作中主体の歌声」「歌人の歌声」「歌い手の歌声」とは別の現象であるようにおもいます。おもいなおしました。「作中主体」とか「歌い手」とかいうのは短歌の「意味」のなかに含まれたものなわけですが、一方で「文体」というのは意味を背負わされたその「外装」のようなものなのだとおおいます。そしてその「外装」自体が音声を発することができる。だから「近代文語文体の声」のようなものもある。それが(底流として)斉藤茂吉の短歌や佐藤佐太郎の短歌においてそれぞれ「斉藤茂吉の声」「佐藤佐太郎の声」(あるいはその作中主体、歌い手の声)にハモる。しかし読者はときにその「文体の声」を「作中主体の声」や「作者の声」だとおもってしまう、という考え方はどうだろう……? とにかく、「作者」=「作中主体」であろうとも、たとえそうでなかろうとも、「文体」は声を発します。わたしたちはその「文体」の声の新規性をあらそうしかないのだろうか?

 

 やっぱりこれは読みにくいとおもうのでもうすこし考えてからわかりやすく書き直します。服部さんごめんなさい。みなさんおつかれさまでした。いま一時間半くらいかけてがーっと一発書きでここまで全部をうちこんでそろそろ文字数が8000字に達しようかというところなんですがここに書いたことはすべてただのアイデアスケッチであって、ここに書いたことをどこかに引用して論じるのは勝手ですが、そしてもし倫理的な瑕疵などがあれば可能な限り対応したいとおもいますが、しかしここに書いた暫定的な仮説をわたしの「意見」だとして応答をもとめるむきに対してはたぶん返答しないとおもうのでどうぞよろしくお願いします。ちゃんと書き直します。

 

 ケーキ。おいしい。おやすみなさい。

*1:なおこれを「ロゴス」と「パロール」といいなおせば哲学上でなんどもなんども繰り返しかたられた問題であり、マクルーハンの「視覚的空間」と「聴覚的空間」の問題にも通じ、『〈声〉とテクストの射程』というまさにそのものを扱った論文集なども出版されていて、かつ、さいきんではアガンベンという哲学者が「声」について積極的な発言をしているそうですが、このあたりのことについてはまだあまりうまく調べられていないので割愛

*2:「文は人なり」という言葉があるそうです

*3:斉藤慶典さんがデカルトの本でこういうことを書いていたかとおもうのですが記憶があいまいなので調べなおします

*4:「客体」ではないのか?。要検討

*5:このような考え方の根底にはガリレオ・ニュートン的な古典力学がモデルとしてあるのだとおもいます

*6:ちょうど古典力学に対する複雑系の科学のようが「狭義のテクスト論」に対する「間テクスト性のテクスト論」になります

*7:穂村さんがどこかで「作者と作品は切り離して読むもの」と大学で教わった、と書かれていました