所感 of 「「「「批評ニューウェーブ」への疑問」への疑問」への疑問」について

【背景】

1.「批評ニューウェーブ」への疑問 | 塔短歌会

2.「「批評ニューウェーブ」への疑問」への疑問(久真八志さん)

3.「「「批評ニューウェーブ」への疑問」への疑問」への疑問(三上春海さん)

4.「「「「批評ニューウェーブ」への疑問」への疑問」への疑問」について(久真八志さん)

 

【整理】 

 短歌の批評において「判断」あるいは「主観」が重要になるという点では久真さん,大森さん,三上さんの三人で認識が一致している。

 久真さんは大森さんの時評について,『「数字やデータから読み取れることを抽出・分析する」批評を何の留保もなく「透明」そして「客観的」と言い切った点』を問題視している。

 

【所感】 

 久真さんは大森さんの批評から『「数字やデータから読み取れることを抽出・分析する」批評を何の留保もなく「透明」そして「客観的」と言い切った点』という問題を見出しているけれども,このように言い切ることができるかどうか,わたしにはうまく判断がつかない,というのは,大森さんは時評のなかで計量的分析などデータに基づく批評について『①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる』という一文を書いている(東京新聞に掲載された山田さんの時評をいま参照できないためこれが山田さんの時評からの引用なのか,大森さんによる要約なのかはわからない)(強調は引用者)。データに基づく批評について大森さんは少なくともこの部分では,「ある程度客観的」という留保をおいているようである。

『「透明」そして「客観的」』(久真さん)の「透明」のほうにふれるまえに時評をすこし読み進めると,山田さんの時評にふれたあとで大森さんは,『私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか。』と書いて,議論の方向を「これまで書かれた評論の評価」ではなくて,「これから書かれるべき評論とはなにか」という,未来の方向へと向ける。だからここから先の大森さんの評論で考えられるのは「いまある」ものではなくて「ありうべき」(いまだない)評論についての思索であると考えたほうがよい(より建設的である)ようにわたしはおもう。このとき,これ以降で試みられるのは思考実験である,と考えることができる。であるからこそ,『歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。』で考えられている「透明な批評」というのは,具体的なだれかの批評を指しているのではなく,議論のために仮構された想像的な対象となる。つまり,大森さんは可能的なものとしての「主観的な批評」と「客観的な批評」を想定して,このふたつを比較していく,という議論をしているのではないだろうか。

 そのうえで大森さんはこの時評のなかで批評における「主観」への期待を書く。*1。そして,久真さんが述べているように,計量的分析の結果に基づいた批評にもまた「解釈」「分析」「判断」という「主観」がある。大森さんの論旨に従うのであれば,計量的分析に基づいた批評において現れるこのような「主観」もまた,その精度によっては肯定されなければならない。三上さんは大森さんの時評について『計量分析をしたあとでの「解釈」の重要性を述べている』と書いていたけれども,大森さんによる「主観」への期待は,「計量的分析」のあとで行われる主観的な「解釈」にもまた期待を寄せているはずである(あるいは,寄せなければならない)。

 そしてまた,大森さんは現実にいまある「データに基づく批評」について『ある程度客観的』と留保していたけれども,私たちは可能なものとして,思考実験においては,「主観のみで書かれた批評」と「客観のみで書かれた批評」という極端なものを想像することができる。大森さんがこの時評のなかで未来方向についてほのめかす客観的な批評にたいする危惧は,計量的分析などを用いて現在行われている批評に対するものというよりは,この可能なものとしての「客観のみで書かれた批評」への危惧ととらえるべきだと考える*2(なぜならば,現在行われているデータに基づく批評には「解釈」という名の「主観」が含まれていて,大森さんの論理ではそれを全否定することはできないのだから)。

 あるいは,このようにテクストを読み替えて行くことでより建設的な議論が可能となる。

 

 大森さんが計量的分析・データに基づく批評を「客観のみで書かれた批評」と捉えているかどうかは実のところ確定はできないけれども,もしこのような誤解が(大森さんにかぎらずほかのあらゆる可能的な他者のうちに)あるとして,計量的分析を愛するわたしたちがするべきことは,そこにある誤解を建設的に解いていくことである。

 

 なお,『歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。』(大森)という一文について,ここでいう「批評の後ろ」にいる「誰か」というのは,岡井隆は短歌の「作品の背後」に「顔」が見えるということが〈私性〉だと書いていたけれども,このような意味での「作者の像」であるようにおもわれる。たとえば「1+1=2」というこの客観的な一文に対し,私たちはその背後に「作者の像」を見出すことができない。同様に,ただ統計データをまとめただけであり「分析」や「判断」のない,可能なものとしての「客観のみで書かれた批評」にもまた,わたしたちはおおくの場合「作者の像」を見出すことができない。このとき「批評の後ろ」には誰もいない,と比喩的にいうことができる。

 しかし,私たちがすでに確認しているように,現実にある計量的分析を用いた批評には「主観」が関わっていて,その「後ろ」には「作者の像」がたしかに存在する。

*1:「主観」への期待については『塔』2015年8月号の時評水仙と盗聴(一) 読みの問題 | 塔短歌会にも書かれている

*2:そしてこれは,例えば統計学の教科書ではたいてい序論的な部分においてただソフトウェアにデータをいれて結果を手にするだけではだめで,人間による「分析」が重要である,という指摘がなされることを踏まえれば,至極まともな指摘であるようにおもう