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共同性と個別性についてのメモ、あるいは永遠について

 『読んだことのない本について堂々と語る方法』という本を読み終えた。

 

 最近さまざまな本を流し読みしながらずっと考えていることがあって、だけれどもそれをひとに説明できるかたちで、まだ言葉に置き換えることができない。そのような私ではあるけれど、せめて「自分だけ」には伝わる形で、なにか「メモ」を残しておこうと思った。そしてキーボードに向かっている。

 『他でもない私自身のために』、この文章は書かれている。

 不要になったら消すかもしれない。

 

 共同性。

 リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』あるいは『信頼』という本を読んだのは高校生のときであるけれど、そのときからずっとこの問題が気にかかっている。

 私がここにメモする「共同性」とは、「共同体」のことではなく、つまり固有の実体を意味しない。共同体の本性、とでも定義すればよいのだろうか。同様にして、固有の実体としては存在しない、個体の「個別性」を考えている。

 共同性と個別性は関係している。

 それは決して、どちらが先にあるというものでもないだろう。共同性があって個別性があるわけではなければ、個別性があってから共同性があるわけでもない。両者はおそらく、関係の中にしか成り立たないのだ。熱さがあるから冷たさがあるように、個別性がなければ共同性もないのではないか。

 しかし、すこし考えを深めてみたい。「共同性」と「個別性」を「自己」と「自我」に置き換えると、明らかに「自己」の方が先立つ。「自己」とは他者の他者としての私であり、「自我」とは単なる〈私〉である。「自己」は共同性であり、「自我」は個別性であるが、〈私〉という自我が成立する前に、まず私はひとびとに自己として出会うのだ。「自己は自我に先立つ」とは、鷲田清一の「自分」についてのエッセイでたびたび触れられていたことでもある。

 共同性という概念と個別性という概念とでは、はやさに違いは存在しない。しかし個体は共同体に遅れる。このような関係がここにはあるだろう。

 

 共同性を宿す実体と、個別性を宿す実体がある。

 共同性を宿すものを「それ」と、個別性を宿すものを「これ」と、以降はかっこつきで指し示したい。

 個別性が複数存在することで、共同性という単一なものは成立する。

 だから、真に純粋なものとしての「それ」は、たったひとつしか存在しないものだ。「それら」はけっしてあり得ない。そして定義上、「それ」があるということは、「これ」が「これら」としてあるということと不可分である。「それ」がある以上、「これ」はたったひとつではあり得ない。

 すべての「これら」があわさったところに、「それ」というたったひとつの実体が成立する。

 共同性と個別性はこのような関係にあるのだと思う。

 それでは、「それ」と「これら」の関係とはなにか。

 先程述べたように、どちらが先にあるというわけではないだろう。だが「これ」にたいしては「それ」が先立つ。

 

 針山につきささった複数のまち針を考えている。「それ」と「これら」の関係を、この針山にたとえて考えてみたい。

 このとき、基盤にある針山が「それ」であり、まち針の先端にある持ち手の球が「これら」である。「それ」がなければ「これら」は倒れてしまう。だが、「これら」がなければ、「それ」の意味は消滅する。針山ではないただの綿塊になってしまうから。

 このようにして「それ」があり、「これら」があるのではないか。

 

 「それ」と「これら」の関係は、針によって担われている。では、針とは何か。

 おそらくそれは、「言葉」あるいは「直観」であると私は思う。たったひとつの針が、ある角度からみると「言葉」に見え、ある角度から見ると「直観」に見えるのかもしれない。「言葉」について究明しようとするものが「言語哲学」であり、「直観」について究明しようとするものが「現象学」、なのだろうか。メルロ=ポンティの哲学は「両義性」あるいは「可逆性」の哲学であると、鷲田清一の本で読んだが、このふたつが互いに不可分であるということに彼は言及しているのかもしれない。

 互いに不可分の針であるということ。

 そして、言語哲学と現象学、ふたつの哲学は共に、針を分析することで「それ」と「これら」の関係を究明する学問に、私には思える。

 

 ライプニッツの『単子論』という本を流し読みしていて、彼のいう「モナド」は、まち針の先端の球ではないか。『モナドは窓を持たない』というなぞめいた言葉があるけれど、「これ」同士はたがいに「言葉」や「直観」でつながりあうことはできないのだと思う。「これ」は針によって「それ」に接続するしかない。「これ」同士がであうためには必ず、「言葉」や「直観」は「それ」を経由しなければならない。綿のなかで意図はゆがめられるだろう。

 だからこそ「これ」は『窓を持たない』のだろうか。

 

 あるいは木村敏の『あいだ』という本も以前流し読みしたことがあって、そこでは「あいだ」とか、「生命の根拠」という言葉が使われていた。「これら」が存在するための「生命の根拠」としての「あいだ」。『あいだ』がそのように述べた本なのかはわからないが、「生命の根拠」とはまさに、上でたとえたところの針山、つまり「それ」なのではないだろうか。

 北村透谷の『内部生命論』を同じ頃青空文庫でざっと読んだけれど、生命とはなんだろうと、ただただ不思議におもっている。

 

 あるいは中沢新一。彼の『宗教入門』という本で、「スープランド」という表現を読んだことがある。いわく、私たちふつうのひとびとは、世界というスープの表面にただよう具材のようなものであるという。世界の表面にただよう、たとえばたまねぎであるところの私たちは、同じように表面に浮かぶものだけをながめていて、それが世界のすべてだと考えている。

 しかし世界はそのような表面だけではない。ある日突然スプーンがさしこまれる。スプーンの侵入に気づいた人は、世界にはまだ「深さ」があるということを知る。たしか彼によれば、宗教とは、そのような「深さ」に気づいたひと、たとえばイエスであり、たとえば釈迦、から始まったという。表面に浮かぶものだけではなく、まだ、この世界には何かがある。私たちの奥にはなにかがある。そのような気づきが宗教の始まりなのだろうか。

 さきほどの共同性と個別性の問題として考えれば、スープの表面とは「これら」であり、スープの奥とは「それ」であると、たとえることができるかもしれない。

 

 あるいは佐々木中の『夜戦と永遠』という本を同じようにいま流し読みしていて、そこでは絶対に到達できない「死」の領域として、ラカンの「現実界」が触れられていた。あるいは似たような(?)ものとして、「外」と呼ばれる時空があるという。西谷修の『不死のワンダーランド』でも、同じように「外」という言葉が使われていて、ともにブランショからこの言葉を引いているらしい。

 『夜戦と永遠』は第一章のラカンの部分で、すでに私は足踏みをしてしまっているため、「現実界」と「外」の関係についてまで、まだ読み進められていないのだけれども、そのうえで考えていることがある。

 だからこれは、再度念を押すけれども、単なるメモである。

 想像界象徴界現実界という三つの世界は、たがいに不可分であり、その関係はボロメオの輪によって喩えられている。隠喩とは、あるいは意味とは、その三界のうち想像界象徴界のまじわるところにあり、そして、現実界には関わっていないものだという。想像界とは直感的な世界であり、象徴界とは言語的な世界であると、私は読みながらなんとなく捉えていた。

 もしかりに、現実界を、あるいは「外」を、先のたとえでいう針山であると、あるいは「それ」であると考えるならば。想像的かつ象徴的であるもの、直感的でありかつ言語的であるもの、つまり針もまたこの場合は「意味」であるとして、位置づけられるのかもしれない。

 「それ」=「あいだ」=「生命の根拠」があって、生命の根拠とはそれ自体生命ではないものだから、つまりは、「非生命」=「死」、として考えることもできるだろう。そして「それ」の側から見た場合、意味の向こう側には、「これら」がいる。「これら」とはたとえばあなたであり、私だろう。

 意味によって、つまり隠喩によって、現実界という針山に触れられるのか、その「外」の時空に到達できるのか。現実界は染み出すという。詩によって? 詩の力? わからないけれど。

 やはりまた、「それ」と「これら」の関係の本として、『夜戦と永遠』を読むことが可能なのではないかと、私は、いま、考えている。この読み方が正しいのかはわからないけれど、すくなくとも、このように読むことは楽しくはある。

 

 最後に、永遠について。「何も終わらない、何も」と佐々木中は書いていたけれど。『切り取れ、ある祈る手を』という彼の語り下ろしの本ではこのことが強く主張されていた。

 永遠とは。つまり、不死とはなんだろう。

 まず考えたいこととして、「これ」が生きているとはどういうことだろうか。あるいは、「これ」にとって死とはなんだろう。

 「私の死は存在しない」とは『不死のワンダーランド』に書かれていたことであるけれども、要するに、私の死の瞬間には、死を経験する私はすでにいないのだから、私にとって死は経験されない、ということであるらしい。

 死は常に、誰かの死としてしか現れない。少なくとも、経験はされない。

 死を「それ」と「これら」で、つまり針山の比喩で考えてみたい。「これ」のことを、いままで針のさきについた持ち手の球体として考えてきたけれど、それを電球のようなものとして、考えてみたいと私は思う。オンの状態がありオフの状態があるもの。

 

 死とは、この電球の光が消滅するようなことではないだろうか。

 誰かの電球が切れたことはわかる。私からそれは確認することができる。しかし、私の電球が切れたことは、私自身は確認できないだろう。そのときすでに私の視界は失われてしまっているのだから。

 宮沢賢治の『春と修羅』は、その「序」は、『わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です』という印象的な一文で始まるけれども、このような「電球」の解釈をした場合私には、この一文がすんなりと飲み込めてしまう。

 

 そして『春と修羅』、先程引用した文の次には、このような一文が来る。

 『(あらゆる透明な幽霊の複合体)』

 針山にまち針が突き刺さっていて、まち針の先では電球がついたりきえたりとせわしない。電球は「これ」である。私であり、あなたである。電球は、おそらく、点灯しているものだけではないだろう。消えているもののほうが圧倒的に多いに違いない。その中にはきっと、「すでに消えてしまった」電球があるだろう、「これから点く」電球があるだろう、だが、「過去においても未来においても、絶対に点灯しない」電球もあるだろう。

 それら過去の、未来の、ありとあらゆる可能な電球を、ありとあらゆる可能な「これら」を、そしてそれらをすべて自らにつなげる共通の基盤としての「それ」を、以上をあわせて考えたひとつの複合体が、『あらゆる透明な幽霊の複合体』、なのだろうか。

 あるいは、『輪るピングドラム』というTVアニメでは、シリーズの後半、「透明」という言葉が繰り返し使われていた。

 きっと何者にもなれないお前たち。

 かつて点灯せず、そしてこれからも絶対に点灯しない、「これ」。絶対に何者にもなれない存在。

 そのようなものははたしてあるのだろうか。

 

 「それ」と「これら」の複合体は、私は時間を持たないと思う。

 「これら」にとっては時間があるだろう。X時間前に、どこどこの電球が消灯した、そのような事実の端的な記述がきっと時間を表すに違いない。このような時間は関係の記述、その順序として表現されるだろう。だが、そのような時間は、「これら」のうちでしか意味を持たないのではないか。時間は「これら」の関係でしかない。

 そのような、「これら」の関係としての時間は、「それ」にとってはなんの意味も持たない。

 だから、複合体は時間を持たないのではないか。

 再び佐々木中に戻ると、「永遠の夜戦」と呼ばれるものがあり、それは「外」において行われうるという。「外」、つまりは、「それ」であった。「それ」は時間を持たないのだから、きっと、永遠なのだと思う。

 

   すべてこれらの命題は

   心象や時間やそれ自身の性質として

   第四次延長のなかで主張されます

 

 再び『春と修羅』の序から引用したけれども、いわゆる物理学的な三次元の空間というのは、どこまでも「これら」の関係でしかないだろうか、と私は考えている。心象も時間も命題それ自身の性質も。しかし詩は、意味は、あるいは「針」はどうなのだろう。

 それらは、もしも、『夜戦と永遠』を私が徹底的に読み違えているのでなければ、「これら」を抜け出て、「それ」につながっているものなのではないか。そのように書かれているのではないか。

 ならば第四次延長とはなにか。

 詩が主張される、「それ」のある場所、なのだろうか。

 

 『われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局を見る。』

 ベンヤミンの『歴史の概念について』という文章があって、私はベンヤミンの書いたものをこれしか読んだことがない。上の文章はその第九テーゼからの引用である(河出書房文庫,ベンヤミンアンソロジー,p.367)。彼とは、ベンヤミンのいう「新しい天使」である。

 歴史においてはさまざまな「もの」が存在するが、それらは緊張関係のなかでひとつの布置(コンステラツィオーン)を描いているという。それは星座によって喩えられていた。布置とはつまり、「これら」の関係であるのかもしれない。

 「それ」のうえで「これら」が描く星座。

 破局とは、電燈の消灯だろうか。多数の電球が一斉に、他の電球の作用によって一斉に「消灯させられる」ことがある。大量死とはそのようなものだろう。打ち砕かれてしまった電球があるだろう。

 そして残される無数の破片。そのような破片をも、「これら」の全体の関係のなかには含まれる。けっして複合体のなかからは消滅しない。なぜなら、電球が砕かれたとしても、その根は、針は、まだ「それ」に根付いているのだから。

 だからベンヤミンの言う「いまこのとき」の中には、過去にあった「これ」も、未来に実現する「これ」も、あるいは過去にも未来にも実現しなかった「これ」も、同時に併置されているのではないか。

 

 『この「いまこのとき」のうちに、メシア的時間の破片がちりばめられているのだ。』[同p.378 補遺A]

 

 メシアは何をするのだろう。救済とは何だろう。

 「それ」を経由して私という「これ」がそれとは別の「これ」につながるためには、果たして何をすればいいのだろう。

 ……書くこと?

 

 なんにせよ、永遠はあるのだろう。生と死を、あるいはそれ以外をも含みこんだ関係の複合体として。

 

 

 メモしたいことはとりあえず、以上で尽きた。観念論に過ぎないと思う。誰にも説明できていない。

 少なくとも、私自身は飲み込めていない。

 「書くこと」にどのような意味があるのか。メシア? 少なくとも、いまだ、そのような「書くこと」には誰も到達できていないのではないか。

 

 ここに書かれたことはなにひとつ、私の独創などではない。すでに存在している文章を個人的に整理したものにすぎないからだ。私ではなくても、誰かが書けただろう。あるいは、誰もが書けただろう。

 独創など、ありえないのではないかとすら思う。(言葉も現象も、私の所有物ではない)

 そしてこれは、私にとっての本の読み方を、あるいは本の関係づけ方を、整理した文章でもまたあるだろう。『読んでいない本について堂々と語る方法』では、本の関係を「図書館」にたとえ、「内面の図書館」という言葉が使われていた。このメモは私の「内面の図書館」でもあるのかもしれない。「それ」と「これら」の関係を軸にして、私の内面の図書館は整理されている。それ以外の読み方がいまはできない。

 

 私は私の読みたいものを文章から読みとっているに過ぎないのだから、ここに書かれたものは、私の読みたいという欲望を、整理したもの、でしかないのだろう。

 かなしいかな。

 ならば私は、私の読みたくないものを読んでみたい。だがそれは決して不可能なのだ。

 

 せめて書ければいいと思う。だから私はきっと詩を、短歌を、書いている。