どうせぼくらはリリカルでポエティックでどうしようもなくセンチメンタル

 lyrical 抒情的な,抒情詩の,熱情的な

 poetic 詩的な,詩の,ロマンチックな

 sentimental 感情的な,感じやすい

 

 さてと。

 最近俳句と麻雀の勉強を始めた。煙草を吸ってみた。だからどうした、といえばどうしたこともない。しばらくは小説を書いていた。短歌を書いていた。私は同人誌を作ろうとしている。

 私は創作をしている。

 

 表現なり創作なりは、はたして生命にとって必要不可欠なものなのだろうか、と考えてみて、毎回、不要だと考えるにいたる。だが、表現を行わない生命体は存在しないのではないかともおもう。小鳥のさえずりを、言語の起源と考えた思想家がいるらしい。コミュニケーションはおそらく表現に含まれる。フェロモンという表現、感情という表現、仕草という表現、……。そこに自由意志はないかもしれないが、自由意志はなくとも表現はあるだろう。

 生命体は表現と切り離されない。

 

 そして、表現と自由意志は、分けて考えられるべきだろう、とおもう。

 自由意志があり、自由意志の発露として、表現なり創作なりがあると、私たちには考えられがちな気がするけれど、それは時代(?)が生み出した錯覚なのではないか、とおもう。自由意志を持たない(と私たちの現代的な常識が判断するタイプの)生物であっても、表現を行なうことはできる。心がなくても表現はできるだろう(と、いうよりも心など本当にあるのか怪しい)。

 自由意志は表現をすることができる。だが、自由意志がなくても表現は行われる。

 

 表現とは、何かに対して何かを開くことだろう。つまり、対なるもの(他者)に開かれることだ。他者に対して、何が開かれるのか。それは、表現を行なう自由意志(内面)である場合がある。だが、そうではない場合ももちろんある。他者に向かって事実(外面)を切り開くこと、とは、どのような表現なのだろう。例えば科学か。そのような表現ももちろんありうる。

 他者に向かって自らの内面を切り開こうとすること、このような行為はリリカルでポエティックでセンチメンタルな行為と区分され、ときにひとから揶揄されるにいたる。「ポエム」は罵倒語と化していないか。しかし、では、私たちはそのような揶揄される行為から離れられるのか。そして、離れるべきなのか。

 他者に向かって自由意志を開かない表現はある。生理学的な反応として。端的な科学的事実として。

 しかし、そのような表現行為を自発的に選択することは可能なのか。

 

 私たちは表現を行なうことができる。表現は常に他者に向かう。他者を願う。他者の姿を追い求める。このようにして「他者に向かっていこう」とする、欲望を、リリカルでポエティックでセンチメンタルなものではないと、私たちは判断することができないのではないか。

 自由意志のもと表現をしようとすることは、他者を求めることから切り離されない。

 そしてすべての表現は、このようなある種の「弱さ,儚さ,女々しさ」(と野蛮なひとびとから呼ばれうるもの)から逃れられない。

 (決して到達できない)他者を追い求めて表現をする私たち。リリカルでポエティックでなんとセンチメンタルなのだろう、と私たちは考えざるをえない。だって、他者を追い求めることはリリカルでポエティックでセンチメンタルなのだろう? そして、それはすべての自由意志に突きつけられた運命なのではないか、とも私は考える。

 誰かに会いたい。という言葉は表現であり、リリカルでポエティックでセンチメンタル。

 殺したい。奪いたい。美味しい物が食べたい。遊びたい。死にたい。アニメが見たい。お金が欲しい。欲しい。欲しい。

 みんなみんなリリカルでポエティックでどうしようもなくセンチメンタル。

 

 もし、リリカルでポエティックでセンチメンタルではない表現が私たちにも可能なのだとすれば、それは「表現をしよう」という意志=欲望には基づかない表現なのだろう。「表現になってしまう」ということ。それのみが、揶揄から逃れることができる行為に違いない。

 欲望から離別するということ。そして、他者の姿を追い求めないこと。表現なんてしようとしないということ。そのようなひとのみが、リリカルでポエティックでセンチメンタルな行為に、石を投げつけて許されるのだ。

 

 どちらが正しいのか、私にはわからない。