「本を読み終える」という思想について、読書メーター、感想文

 岩波文庫の「宮柊二歌集」を読んでいる。

 拾い読んでいる。

 

 適当に気になったページを開き、そのページから何ページか読み進め、そして疲れたら本を閉じる、ということを何度も繰り返している。であるから、いつまで経っても読み終わらない。読み終わるはずがないだろう。

 同じ歌を繰り返し読んでいるに違いない。読んでいて、それに気づくときがある。だが気づかない時もあるだろう。僕は読んだことを忘れてしまう。既に読んだ歌を、初めて読む歌として読んでいた可能性も大いにある。

 だから僕は、宮柊二歌集をいつまでも読み終えることがない。

 

 「読み終える」とはどのようなことなのだろうか。

 読んだ歌にひとつひとつ印を付けていくとしよう。だんだんと文庫には印が増えていく。初め、印をつけることは楽しいだろう。開いたページはどのページも無印であり、印がつけられることを待っているのだから。

 だが時が経つうち、印がついていないページを探すことが難しくなっていく。開けば、どのページにも印が付いている。だがすべての歌に印がついているかは分からない。僕はいらだちを覚えるかもしれない。印がついていない歌が本のどこかにひょっとしたらあるのかもしれない、だがすぐには分からない、ということへ。確かめるため、僕は本を最初から順番に手繰らなければならなくなる。

 そのような行為を経て、すべての歌に印がついたとしよう。

 すべての歌に印がついたということは、僕は「宮柊二歌集」を読み終えたことになるのだろうか。普通に考えればそうだろう。だが、どうもおかしい。だって本に印をつけていない僕は、「宮柊二歌集」を読み終えられないのだった。なぜ、印をつけただけで読み終えることが可能になるのだろうか。どうも不思議である。

 「読み終える」とは何のことなのだろう。 

 

 「読み終える」とは普通、「本の中身をすべて読んだ」ということを意味しているはずだ。始めから終わりまで直線的に本を読みきったとき、人は「本を読み終えた」という。

 だが、ランダムにページを読んでいく場合はどうだろう。ランダムにページをめくる、そしてすべてのページを読みおえたとき、このときもまた「本を読み終えた」ことになるのだろうか。

 どうも僕は違う気がする。

 確かにこの場合もすべてのページは読み終えている。だがランダムにページをめくるという作業はまだ終了していないのではないか。僕は読んだことを忘れてしまうのだった。既に読んだページを僕は、全く新しいページとして読んでしまうことが可能である。だから僕は本を読み終えない。

 「本を読み終えた」ということは、「本の中身を全て読んだ」という事実と、まったく等しいわけではないのだ。

 「本の中身をすべて読んだ」場合でも「本を読み終えない」ことは可能である。ランダムにページをめくる場合がそれだ。だから「本を読み終えた ⇔ 本の中身をすべて読んだ」ではない。「本を読み終えた ⇒ 本の中身をすべて読んだ」である。決してふたつは同値ではない。

 「本を読み終えた」ならば「本の中身をすべて読んだ」のだろう。だが、その逆は決して成り立たない。

 

 ここまではまだ常識的な推論の範囲にある。だが僕は、常識を離れて、さらに次のように疑っている。

 「本を読み終えた」とは、「始めから終わりまで本を読んだ」というある「立場」の表明でしかないのではないか。例えば、「私は神を信じている」のような。それは「~である」という立場の表明であって、決して、「~した」という行為の表現ではないのではないか。

 「本を読み終えた」とは決して、「本の中身をすべて読んだ」というような、具体的な行為を意味してはいないのではないか。これが僕の疑いだ。

 一般に、人は本の中身を忘れてしまう。すべてを覚えることは(少なくとも僕には)できない。「すべて」を維持することは普通、無理なのだ。それなのに、「本を読み終えた」という文章は、まるで「本の中身をすべて読んだ」、そしてそれをあたかも「維持している」ことのように聞こえてしまう。本の中身をすべて「支配」し終えたことであるかのように、聞こえてしまう。確かに一応本の中身をすべて読んではいるだろう。しかし僕にはそのような表現が恐ろしく感じる。

 「忘れる」という確かな事実が、「本を読み終えた」という言葉によって、隠蔽されてしまう気がするのだ。

 本を読み終えることなど不可能なのではないかとすら、僕は疑っている。読書とは本質的にランダムにページをめくり続ける行為と全く変わらなのではないかと。忘れるという事実に脅かされながら永遠にページをめくり続けること、めくり続けなければならないこと。読書とはこのような「悪夢的な行為」なのではないか。

 「本を読み終える」とはこのような悪夢から目を背けるために生み出された戦略的な「思想」のように僕には思える。思えてしまう。本は読み終えられないという悪夢から目をそむけるため、人は、「本を読み終えた」と信じてしまうのではないか。

 空想である。

 

 話を変えたい。

 「読書メーター」や「ブクログ」といった「読み終えた本」を記録するサービスが存在する。それらは本の感想を記入したり、自分と同じ本を読んだ人を探したりできるSNSとしても機能している。

 僕は一時期「読書メーター」を利用していたことがある。だが上手く馴染めなかったため、アカウントは残しているのだが、更新を完全にやめてしまった。

 その理由を考えている。

 おそらく僕は「本を読み終える」という「思想」に馴染めなかったのだ。「始めから終わりまで本を読んだ」というたったそれだけのことを通して、「本を読み終えた」などと言ってしまえる空間、そこに僕は居場所を作れなかった。

 昔の僕はそうではなかった。むしろ僕はそのような「読書メーター的空間」の方にいた。「本を読み終える」という一般的な思想を無邪気に信じていたことがあった。そのころ僕は、これとは別のブログに、毎日のように読書感想を書いていた。「読み終えた本の感想」などと偽り、あさましい散文を書き散らかしたのだ。悔いるべき過去としてそれは存在する。

 僕は回心してしまった。

 本を読み終えることはできない。僕は今ではそう信じている。これはおよそ一般的な思想ではないだろう。だから僕は「読書メーター」を利用する一般的な人々に、「本を読み終える」ことを信じる人々に、うまく馴染めなくなったのだ。本を読み終えられない人にとって、読み終えた本の記録など、不可能だ。

 これが正しい理由であるのかは、僕のことであるのだが、分からない。

 

 しかしそれでも、『読書と短歌のブログ』と銘打ったこれとは別のブログを動かすために、できることはないのかと僕は考えている。僕の立場から読書感想を書くために。

 例えば僕は、「読み終えていない本の感想」を書くことは可能なのかと考えている。決して本の全体を網羅しようとはしない、本に自分が包まれているような感想。忘却と真摯に向き合う感想だ。まだ、勝機は見えない。正気ではない。だが考えることは楽しくはある。

 僕は果たして読書感想を書けるのか。分からない。ただ、向き合いたい。