共同性と個別性についてのメモ、あるいは永遠について

 『読んだことのない本について堂々と語る方法』という本を読み終えた。

 

 最近さまざまな本を流し読みしながらずっと考えていることがあって、だけれどもそれをひとに説明できるかたちで、まだ言葉に置き換えることができない。そのような私ではあるけれど、せめて「自分だけ」には伝わる形で、なにか「メモ」を残しておこうと思った。そしてキーボードに向かっている。

 『他でもない私自身のために』、この文章は書かれている。

 不要になったら消すかもしれない。

 

 共同性。

 リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』あるいは『信頼』という本を読んだのは高校生のときであるけれど、そのときからずっとこの問題が気にかかっている。

 私がここにメモする「共同性」とは、「共同体」のことではなく、つまり固有の実体を意味しない。共同体の本性、とでも定義すればよいのだろうか。同様にして、固有の実体としては存在しない、個体の「個別性」を考えている。

 共同性と個別性は関係している。

 それは決して、どちらが先にあるというものでもないだろう。共同性があって個別性があるわけではなければ、個別性があってから共同性があるわけでもない。両者はおそらく、関係の中にしか成り立たないのだ。熱さがあるから冷たさがあるように、個別性がなければ共同性もないのではないか。

 しかし、すこし考えを深めてみたい。「共同性」と「個別性」を「自己」と「自我」に置き換えると、明らかに「自己」の方が先立つ。「自己」とは他者の他者としての私であり、「自我」とは単なる〈私〉である。「自己」は共同性であり、「自我」は個別性であるが、〈私〉という自我が成立する前に、まず私はひとびとに自己として出会うのだ。「自己は自我に先立つ」とは、鷲田清一の「自分」についてのエッセイでたびたび触れられていたことでもある。

 共同性という概念と個別性という概念とでは、はやさに違いは存在しない。しかし個体は共同体に遅れる。このような関係がここにはあるだろう。

 

 共同性を宿す実体と、個別性を宿す実体がある。

 共同性を宿すものを「それ」と、個別性を宿すものを「これ」と、以降はかっこつきで指し示したい。

 個別性が複数存在することで、共同性という単一なものは成立する。

 だから、真に純粋なものとしての「それ」は、たったひとつしか存在しないものだ。「それら」はけっしてあり得ない。そして定義上、「それ」があるということは、「これ」が「これら」としてあるということと不可分である。「それ」がある以上、「これ」はたったひとつではあり得ない。

 すべての「これら」があわさったところに、「それ」というたったひとつの実体が成立する。

 共同性と個別性はこのような関係にあるのだと思う。

 それでは、「それ」と「これら」の関係とはなにか。

 先程述べたように、どちらが先にあるというわけではないだろう。だが「これ」にたいしては「それ」が先立つ。

 

 針山につきささった複数のまち針を考えている。「それ」と「これら」の関係を、この針山にたとえて考えてみたい。

 このとき、基盤にある針山が「それ」であり、まち針の先端にある持ち手の球が「これら」である。「それ」がなければ「これら」は倒れてしまう。だが、「これら」がなければ、「それ」の意味は消滅する。針山ではないただの綿塊になってしまうから。

 このようにして「それ」があり、「これら」があるのではないか。

 

 「それ」と「これら」の関係は、針によって担われている。では、針とは何か。

 おそらくそれは、「言葉」あるいは「直観」であると私は思う。たったひとつの針が、ある角度からみると「言葉」に見え、ある角度から見ると「直観」に見えるのかもしれない。「言葉」について究明しようとするものが「言語哲学」であり、「直観」について究明しようとするものが「現象学」、なのだろうか。メルロ=ポンティの哲学は「両義性」あるいは「可逆性」の哲学であると、鷲田清一の本で読んだが、このふたつが互いに不可分であるということに彼は言及しているのかもしれない。

 互いに不可分の針であるということ。

 そして、言語哲学と現象学、ふたつの哲学は共に、針を分析することで「それ」と「これら」の関係を究明する学問に、私には思える。

 

 ライプニッツの『単子論』という本を流し読みしていて、彼のいう「モナド」は、まち針の先端の球ではないか。『モナドは窓を持たない』というなぞめいた言葉があるけれど、「これ」同士はたがいに「言葉」や「直観」でつながりあうことはできないのだと思う。「これ」は針によって「それ」に接続するしかない。「これ」同士がであうためには必ず、「言葉」や「直観」は「それ」を経由しなければならない。綿のなかで意図はゆがめられるだろう。

 だからこそ「これ」は『窓を持たない』のだろうか。

 

 あるいは木村敏の『あいだ』という本も以前流し読みしたことがあって、そこでは「あいだ」とか、「生命の根拠」という言葉が使われていた。「これら」が存在するための「生命の根拠」としての「あいだ」。『あいだ』がそのように述べた本なのかはわからないが、「生命の根拠」とはまさに、上でたとえたところの針山、つまり「それ」なのではないだろうか。

 北村透谷の『内部生命論』を同じ頃青空文庫でざっと読んだけれど、生命とはなんだろうと、ただただ不思議におもっている。

 

 あるいは中沢新一。彼の『宗教入門』という本で、「スープランド」という表現を読んだことがある。いわく、私たちふつうのひとびとは、世界というスープの表面にただよう具材のようなものであるという。世界の表面にただよう、たとえばたまねぎであるところの私たちは、同じように表面に浮かぶものだけをながめていて、それが世界のすべてだと考えている。

 しかし世界はそのような表面だけではない。ある日突然スプーンがさしこまれる。スプーンの侵入に気づいた人は、世界にはまだ「深さ」があるということを知る。たしか彼によれば、宗教とは、そのような「深さ」に気づいたひと、たとえばイエスであり、たとえば釈迦、から始まったという。表面に浮かぶものだけではなく、まだ、この世界には何かがある。私たちの奥にはなにかがある。そのような気づきが宗教の始まりなのだろうか。

 さきほどの共同性と個別性の問題として考えれば、スープの表面とは「これら」であり、スープの奥とは「それ」であると、たとえることができるかもしれない。

 

 あるいは佐々木中の『夜戦と永遠』という本を同じようにいま流し読みしていて、そこでは絶対に到達できない「死」の領域として、ラカンの「現実界」が触れられていた。あるいは似たような(?)ものとして、「外」と呼ばれる時空があるという。西谷修の『不死のワンダーランド』でも、同じように「外」という言葉が使われていて、ともにブランショからこの言葉を引いているらしい。

 『夜戦と永遠』は第一章のラカンの部分で、すでに私は足踏みをしてしまっているため、「現実界」と「外」の関係についてまで、まだ読み進められていないのだけれども、そのうえで考えていることがある。

 だからこれは、再度念を押すけれども、単なるメモである。

 想像界象徴界現実界という三つの世界は、たがいに不可分であり、その関係はボロメオの輪によって喩えられている。隠喩とは、あるいは意味とは、その三界のうち想像界象徴界のまじわるところにあり、そして、現実界には関わっていないものだという。想像界とは直感的な世界であり、象徴界とは言語的な世界であると、私は読みながらなんとなく捉えていた。

 もしかりに、現実界を、あるいは「外」を、先のたとえでいう針山であると、あるいは「それ」であると考えるならば。想像的かつ象徴的であるもの、直感的でありかつ言語的であるもの、つまり針もまたこの場合は「意味」であるとして、位置づけられるのかもしれない。

 「それ」=「あいだ」=「生命の根拠」があって、生命の根拠とはそれ自体生命ではないものだから、つまりは、「非生命」=「死」、として考えることもできるだろう。そして「それ」の側から見た場合、意味の向こう側には、「これら」がいる。「これら」とはたとえばあなたであり、私だろう。

 意味によって、つまり隠喩によって、現実界という針山に触れられるのか、その「外」の時空に到達できるのか。現実界は染み出すという。詩によって? 詩の力? わからないけれど。

 やはりまた、「それ」と「これら」の関係の本として、『夜戦と永遠』を読むことが可能なのではないかと、私は、いま、考えている。この読み方が正しいのかはわからないけれど、すくなくとも、このように読むことは楽しくはある。

 

 最後に、永遠について。「何も終わらない、何も」と佐々木中は書いていたけれど。『切り取れ、ある祈る手を』という彼の語り下ろしの本ではこのことが強く主張されていた。

 永遠とは。つまり、不死とはなんだろう。

 まず考えたいこととして、「これ」が生きているとはどういうことだろうか。あるいは、「これ」にとって死とはなんだろう。

 「私の死は存在しない」とは『不死のワンダーランド』に書かれていたことであるけれども、要するに、私の死の瞬間には、死を経験する私はすでにいないのだから、私にとって死は経験されない、ということであるらしい。

 死は常に、誰かの死としてしか現れない。少なくとも、経験はされない。

 死を「それ」と「これら」で、つまり針山の比喩で考えてみたい。「これ」のことを、いままで針のさきについた持ち手の球体として考えてきたけれど、それを電球のようなものとして、考えてみたいと私は思う。オンの状態がありオフの状態があるもの。

 

 死とは、この電球の光が消滅するようなことではないだろうか。

 誰かの電球が切れたことはわかる。私からそれは確認することができる。しかし、私の電球が切れたことは、私自身は確認できないだろう。そのときすでに私の視界は失われてしまっているのだから。

 宮沢賢治の『春と修羅』は、その「序」は、『わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です』という印象的な一文で始まるけれども、このような「電球」の解釈をした場合私には、この一文がすんなりと飲み込めてしまう。

 

 そして『春と修羅』、先程引用した文の次には、このような一文が来る。

 『(あらゆる透明な幽霊の複合体)』

 針山にまち針が突き刺さっていて、まち針の先では電球がついたりきえたりとせわしない。電球は「これ」である。私であり、あなたである。電球は、おそらく、点灯しているものだけではないだろう。消えているもののほうが圧倒的に多いに違いない。その中にはきっと、「すでに消えてしまった」電球があるだろう、「これから点く」電球があるだろう、だが、「過去においても未来においても、絶対に点灯しない」電球もあるだろう。

 それら過去の、未来の、ありとあらゆる可能な電球を、ありとあらゆる可能な「これら」を、そしてそれらをすべて自らにつなげる共通の基盤としての「それ」を、以上をあわせて考えたひとつの複合体が、『あらゆる透明な幽霊の複合体』、なのだろうか。

 あるいは、『輪るピングドラム』というTVアニメでは、シリーズの後半、「透明」という言葉が繰り返し使われていた。

 きっと何者にもなれないお前たち。

 かつて点灯せず、そしてこれからも絶対に点灯しない、「これ」。絶対に何者にもなれない存在。

 そのようなものははたしてあるのだろうか。

 

 「それ」と「これら」の複合体は、私は時間を持たないと思う。

 「これら」にとっては時間があるだろう。X時間前に、どこどこの電球が消灯した、そのような事実の端的な記述がきっと時間を表すに違いない。このような時間は関係の記述、その順序として表現されるだろう。だが、そのような時間は、「これら」のうちでしか意味を持たないのではないか。時間は「これら」の関係でしかない。

 そのような、「これら」の関係としての時間は、「それ」にとってはなんの意味も持たない。

 だから、複合体は時間を持たないのではないか。

 再び佐々木中に戻ると、「永遠の夜戦」と呼ばれるものがあり、それは「外」において行われうるという。「外」、つまりは、「それ」であった。「それ」は時間を持たないのだから、きっと、永遠なのだと思う。

 

   すべてこれらの命題は

   心象や時間やそれ自身の性質として

   第四次延長のなかで主張されます

 

 再び『春と修羅』の序から引用したけれども、いわゆる物理学的な三次元の空間というのは、どこまでも「これら」の関係でしかないだろうか、と私は考えている。心象も時間も命題それ自身の性質も。しかし詩は、意味は、あるいは「針」はどうなのだろう。

 それらは、もしも、『夜戦と永遠』を私が徹底的に読み違えているのでなければ、「これら」を抜け出て、「それ」につながっているものなのではないか。そのように書かれているのではないか。

 ならば第四次延長とはなにか。

 詩が主張される、「それ」のある場所、なのだろうか。

 

 『われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局を見る。』

 ベンヤミンの『歴史の概念について』という文章があって、私はベンヤミンの書いたものをこれしか読んだことがない。上の文章はその第九テーゼからの引用である(河出書房文庫,ベンヤミンアンソロジー,p.367)。彼とは、ベンヤミンのいう「新しい天使」である。

 歴史においてはさまざまな「もの」が存在するが、それらは緊張関係のなかでひとつの布置(コンステラツィオーン)を描いているという。それは星座によって喩えられていた。布置とはつまり、「これら」の関係であるのかもしれない。

 「それ」のうえで「これら」が描く星座。

 破局とは、電燈の消灯だろうか。多数の電球が一斉に、他の電球の作用によって一斉に「消灯させられる」ことがある。大量死とはそのようなものだろう。打ち砕かれてしまった電球があるだろう。

 そして残される無数の破片。そのような破片をも、「これら」の全体の関係のなかには含まれる。けっして複合体のなかからは消滅しない。なぜなら、電球が砕かれたとしても、その根は、針は、まだ「それ」に根付いているのだから。

 だからベンヤミンの言う「いまこのとき」の中には、過去にあった「これ」も、未来に実現する「これ」も、あるいは過去にも未来にも実現しなかった「これ」も、同時に併置されているのではないか。

 

 『この「いまこのとき」のうちに、メシア的時間の破片がちりばめられているのだ。』[同p.378 補遺A]

 

 メシアは何をするのだろう。救済とは何だろう。

 「それ」を経由して私という「これ」がそれとは別の「これ」につながるためには、果たして何をすればいいのだろう。

 ……書くこと?

 

 なんにせよ、永遠はあるのだろう。生と死を、あるいはそれ以外をも含みこんだ関係の複合体として。

 

 

 メモしたいことはとりあえず、以上で尽きた。観念論に過ぎないと思う。誰にも説明できていない。

 少なくとも、私自身は飲み込めていない。

 「書くこと」にどのような意味があるのか。メシア? 少なくとも、いまだ、そのような「書くこと」には誰も到達できていないのではないか。

 

 ここに書かれたことはなにひとつ、私の独創などではない。すでに存在している文章を個人的に整理したものにすぎないからだ。私ではなくても、誰かが書けただろう。あるいは、誰もが書けただろう。

 独創など、ありえないのではないかとすら思う。(言葉も現象も、私の所有物ではない)

 そしてこれは、私にとっての本の読み方を、あるいは本の関係づけ方を、整理した文章でもまたあるだろう。『読んでいない本について堂々と語る方法』では、本の関係を「図書館」にたとえ、「内面の図書館」という言葉が使われていた。このメモは私の「内面の図書館」でもあるのかもしれない。「それ」と「これら」の関係を軸にして、私の内面の図書館は整理されている。それ以外の読み方がいまはできない。

 

 私は私の読みたいものを文章から読みとっているに過ぎないのだから、ここに書かれたものは、私の読みたいという欲望を、整理したもの、でしかないのだろう。

 かなしいかな。

 ならば私は、私の読みたくないものを読んでみたい。だがそれは決して不可能なのだ。

 

 せめて書ければいいと思う。だから私はきっと詩を、短歌を、書いている。

卒業について、終わりについて

 「映画けいおん!」を観た。久しぶりに観る映画だった。

 けいおんのアニメシリーズは断続的に数話を観た程度、一応原作は人から借りて高校編の終わりまで読んだのだが、作品に対し特別強い感情を抱いているわけではない。ファンと呼ばれる立場にはないと思う。そんな私ではあるが、今週中に札幌での上映が終わるということで、もったいないかと思い観ることにした。

 感想、面白かった。前半少し退屈したが、ロンドンへ渡って以降、彼女たちの「わくわく」を同様にわくわくする私がいた。何を論じる必要があるだろう。わくわく、それだけでいいじゃないか。語ろうとする言葉はかえって野蛮であるようにも思える。であるが、機会があれば、別のブログにしっかりとした文章を書こうかとも思っている。

 今は別のことを書きたい。

 

 「終わりなき日常」とか、「終わりなき日常の終わり」とか、あるいはこれに似た言葉を去年はたくさん耳にした。なんだかな、と思っていた。終わらないものなど何もないのではないだろうかと、私は考えている。日本はいずれ終わる。生命はいずれ終わる。宇宙は終わる。終わらないものなど何もないだろう。これが私の基本的な立場である。格好つけて私の「ドグマ」であると、呼んでもいいかもしれない。

 「終わりなき日常」などありうるのだろうか。

 「けいおん!」に限らず、物語は必ず終わる。終わりなき物語などないだろう。なぜなら、作者は永遠の存在ではないのだから。永遠の存在は神だけである。

 「日常」とは物語の一種ではないだろうか。日常なる事物が存在するわけではないだろう。日常とは、語りの中にのみ存在するものだと私は思う。「日常」という言葉は状態に対する評価であり、つまりは状態の記述ではないだろうか。特別なことがない状態を評して私たちは日常と記述する。「日常」とはそのようにして語られる「物語」ではないか。

 物語は必ず終わるのだ。だからこそ、終わりなき日常など存在しない。

 

 しかし、終わった物語は再開することができる。このことは強調されるべきだろう。

 作者は途切れる。しかし途切れた作者を誰かが引き継ぐことはできる。『Project Itoh goes on.』というフレーズを思い出している。

 だからこそ、終わりは決して断絶ではない。『幸せは途切れながらも 続くのです』と歌うスピッツの歌があったが、すべては途切れながらも続く、いや、「続きうる」のではないだろうか。

 宇宙は終わる。だが終わったのち、それとは別の宇宙が再誕するかもしれない。その可能性は否定出来ないだろう。

 完璧な終わりなど存在しない。

 

 さてこそ、話を次に転じたい。

 卒業は終わりなのだろうか。

 卒業は終わりである。それは間違いない。卒業によって学校生活は終わる。しかし同時に卒業は終わりではないだろう。卒業しても生活は続くのだから。

 だからこそ、卒業は終わりであって終わりではないと言えるのではないだろうか。

 

 卒業は終わりじゃない、フィクションにおいてはしばしば言われる。そう言いながらフィクションは終わってしまう。学校を舞台にするさまざまなフィクションに慣れ親しんだ人であるならば、何度も同様の経験をしたことがあるはずだ。卒業は終わりじゃないと言いながら、卒業によってフィクションは終わってしまう。

 一方で、卒業は終わりだと私たちは言う。それは学校生活の終わりを指している。「終わりだから」、そう言いながら卒業アルバムに寄せ書きをしたり、あるいは記念写真を撮ったりするだろう。しかし卒業は部分的なものしか終わらせない。学校を卒業しても生活は続くのだから。あれほど離れ離れになると思っていた誰かと、他愛もなく再会してしまうかもしれない。卒業は終わりだと言いながら、卒業によって生活は終わらない。

 終わるのか、終わらないのか。フィクションと実生活との間で、「卒業」の扱いが鏡写しになっている気がする。終わらないと言いながら終わってしまう。終わると言いながら終わらない。

 卒業によって終わるもの、卒業によっては終わらないもの。つまりは「世界」のことだろう。

 終わる世界=フィクションにおいては「卒業は終わりじゃない」と言われ、終わらない世界=実生活においては「卒業は終わりだ」と言われる。なぜだろう。どちらも、「祈り」の言葉なのだろうか。ありえないものを希求する「心」が産み出した言葉なのか。

 そう言うのは、少し行き過ぎかもしれないが。

 

 全ては終わる。だけれども続く、続きうる。それは希望でも絶望でもあるだろう。希望が終わるのは絶望であり、絶望が終わるのは希望であるのだから。

 卒業を引き継ぐものは誰なのだろう。それからの私の生活か、学校に残る後輩たちか。よくわからない。答えなどあるのだろうか。

 ともあれ、既に2月も半ばを過ぎた。卒業の季節が近づいている。

雪に踊る、アイドル、主役とは

 先日、かの「さっぽろ雪まつり」が開かれている大通公園を訪れた。

 行こうと思って行ったのではなかった。地下鉄を利用して市内をぶらぶら巡っていたときに時間が余ったので、なんとなく立ち寄ったのだ。偶然その日は雪まつりの最終日だったので、私は存外うれしくなった。

 既に日は暮れていた。風の強い日であり、雪も大量に降っていた。つまりひどい吹雪だった。時によっては視界のほとんどが奪われるようなひどい天気で、通りの電光掲示板にはマイナス六・五度と表示されていた。

 そんな日であっても会場にはひとがたくさん集まっていた。出店も繁盛しているようだった。多くのひとがめいめい何かを食べながら、笑っている。イベントであるから、祭りであるからだろう。「祭り」という行事の求心力を私は思った。祭りを「祭典」といいかえると儀礼めいてしまうが、そのときは確かに儀礼めいたものが公園内には満ちていたのだと思う。

 札幌の夜には冷たさと暖かさが混濁していた。

 思いながら公園を散策した。

 

 情景描写で足踏みしていても仕方がない。さっそく本題に入りたい。

 書きたいことはそこで観たアイドルのひとたちのことである。

 雪まつりを観るのは今年が二回目のことだった。雪まつりの見所は主にふたつあって、ひとつは常設されている雪像たち、もうひとつは時間指定で行われる様々なイベントだと思う。

 夜の中で照らされる雪の像は奇妙だった。光の色に染まっているはずだった、しかし雪像は確かな白色に感じられて、色の不思議を私は思った。しかしそれについてはここに書いても仕方がない。いつかの機会にとっておこうと思う。

 特に何を注視することもなく歩き回っていたとき、音楽が聞こえてきた。最初はただのBGMに聞こえた。近づいて違うことを知った。それは生音、生きている音だった。

 やがて視界が開ける。氷でできたステージの上で、アイドルと思われる少女たちが歌い、踊っていた。

 

 

 大通公園は碁盤目状の街を横切るように細く長く広がっている。丁目ごとに会場名がつけられていて、私がたどり着いたのは「氷の広場」と呼ばれる会場だった。

 氷のステージの上で、アイドルの少女たちが踊っていた。曲は多分、私は詳しくないので確信は持てないが、AKB48の曲だったと思う。カバーだったのだろうか。ステージの前には黒山の、それなりの人だかりができていた。決して多くはなかったが、少なくもない。通行人の多くはそこで足を一度止めた。私もそれに従った。

 氷点下だった。雪もひどく降っていた。

 だからそれはまるで非現実的な光景に思えた。

 私は雪像を見てまわるため、一目見やってからすぐにそこを立ち去った。しばらく、二十分ほど経ったあとだろうか、もう一度そこを訪れた。まだパフォーマンスをやっていた。別のアイドルグループに交代していたようだが、人だかりの大きさは変わっていなかった。しばらく見学をすることにした。

 

 テレビやインターネットではなく、現実にアイドルを観るのはそれが初めてのことであり、少し興奮した。「リアルアイドルだ」、と私は思った。おそらく全国的に有名なアイドルではなかったのだと思う。人だかりを占めるのは私と同じく、興味本位の人ばかりのようだった。

 だが最前列には、サイリュームを持って踊る熱心なファンのひとたちもいた。野太い声が響く、そこだけが別空間だった。「これがそれか」、と私は思った。アイドルオタクと呼んでいいのだと思う。いわゆる「アイドルオタク」のひとたちを観るのもまた、私には初めてのことだった。

 モニターの向こうにしか存在しないはずの、「非現実」がそこにはあった。おかしさに、頬がゆるみそうになった。面白いという意味ではなく、奇妙だった。ただおかしかった。だって夜で、気温は氷点下で、風が強く吹いていた。アイドルの少女たちは暖かそうなコートを着ていたが、それでもステージの上は寒そうに思えた。

 なんなのだろうと思った。不思議だった。

 ステージ上のグループがまた交代した。次に現れたアイドルのひとたちはコートではなく、制服様の衣装を着ていた。一目で寒そうに見えた。震えていた。しかし、彼女たちは楽しそうでもあった。明らかに、私よりも年下だった。「北の宝石箱」と自分たちを紹介した。

 調べたところ、「Jewel kiss」というアイドルグループであるらしい。

 

 去年、私は「THE IDOL M@STER」というアニメシリーズに心を奪われた。

 アニメで観たそのままの光景ではない。しかしアニメに感じたある種の「情熱」が、その舞台には広がっていた。初めて見るアイドルに私は感動していた。

 アイドル。TVアニメでは、彼女たちは主役だった。全く人気のないところから始まった。街頭でCDを手売りする。オーディションには受からない。それでも彼女たちは主役だった。彼女たちはアイドルなのだから。

 ステージの上で踊る彼女たちもまた、そのとき確かに主役だったと思う。輝いていた。それはまず第一に、物理的な意味でである。スポットライトは雪に舞う彼女たちを照らしていた。でも、それだけではないだろう。

 彼女たちはうれしそうに踊っていた。笑っていた。アイドルとしての演技なのだろうか? そうかもしれない。違うかもしれない。

 雪の舞う中での彼女たち笑顔は、幻想的であり非現実的だった。情熱的であり、輝いていた。

 

 しかし主役はそれだけではなかった。ある意味でアイドオタクの、ファンのひとたちもまたそうだと思った。

 彼らは吠えていた。乱舞していた。彼らこそ情熱の主体のようにも思えた。

 観客に最も近いのは誰か。アイドルではない。彼らである。

 彼らには熱がこもっていた。鬼気迫っていたと言っていい。氷点下の中で、半袖のTシャツのひともいた。半裸になったひともいたらしい。荷物を放って、サイリュームを振る。

 周囲の「一般人」の視線は彼らをもまた、「非現実」の一部と捉えていたのではないか。

 彼らは決して傍観者ではなかった。彼らはステージに参加していた。彼らこそ、非現実を、ステージを作り上げていたのではないか。

 

 打ち込みの重低音は私の体を揺らした。熱さと冷たさの境界で揺れた。

 主役の居場所はどこにあるのだろう、と思った。

 私はそのとき、どこまでも傍観者でしかなかった。アイドルの少女たちが踊っていた。彼女たちは間違いなく主役だっただろう。ステージにおける主体だっただろう。きっとでも、それだけではない。

 ファンの彼らもまた主役だったのではないか。彼らは彼らの世界を作っていた。アイドルという主役を彼らが観るのか、彼らという主役が少女たちをアイドルにするのか、どちらが正しいのか私にはわからなかった。どちらも正しいのではないだろうか。主体が相互にねじれ合って、ひとつの「場」として共鳴していた気がする。

 ひとつの主体が、ステージの中で、情熱を燃やす、輝いている。その「主体」とは誰のことだろう。アイドルであり、ファンであるのではないか。それらの相互作用こそがひとつの「主体」になるのではないか。

 ライブとは「みんなでつくる」ものである。前述のTVアニメではそのように言っていた。

 ここに展開されている非現実は、まさにそれではないのだろうか。

 震えた。

 

 そして、ひどく危ういものにも思えた。

 誰が観るのだろう。誰が観客なのだろう。観客などそこにはいないのではないか。彼女たちがいて、彼らがいて、どちらも舞台の主体なのだから。

 非現実と現実との間には通路があって、それは自由に行き来可能である。その気になれば、私はファンの彼らに混ざり合うことができた。私もまた主体の一部になることができたに違いない。しかし私はそれをしなかった。ただ、観た。いわゆる現実の側から、観ることしかできなかった。

 現実に足をつけたまま非現実に参加することはできないのだろう。私は舞台に参加していなかった。

 彼らの、彼女たちの世界は完結していた。

 

 彼らは主役だった。彼女たちも主役だった。誰が誰を観ているのか、私にはまったくわからなかった。

 

 非現実の世界はどこに行くのだろう。

 彼女たちも彼らも主役である。それを疑うことはできないと思った。しかし非現実は終わってしまう。主役であり続けることはできないのだ。終わった後の世界には、もはや何者も住めないのだから。

 彼女たちはアイドルとして成功するのだろうか。それともいつか、アイドルをやめてしまうのだろうか。彼らはいつまでファンでいるのだろう。永遠につづくものなど何もないのだろう。誰もがやがては年老いる。あるいは死ぬ。

 いつまでも主役でいることはできない。

 終わってしまうことを私は思った。ステージで、誰もが笑っていた。笑顔に包まれていた。非現実感。奇妙さ。「楽しさ」がそこには存在した。だからこそ私は怖くなった。泣きそうになった。余計な心配でしかないだろう。現状、すべてはうまくいっているのだ。しかし、それでもと思ってしまう。今が頂点であるかはわからない。アイドルとして彼女たちはまだこれから、さらに成長をするのかもしれない。まだ彼女たちは登っていくのかもしれない。しかし。「しかし」が拭えない。

 悲しみを思った。

 予感、なのだろうか。

 観続けることが苦しくなった。

 

 途中、MCの時間になったところで私は会場を後にした。体が芯から冷えていた。震えていた。そもそも雪まつりに来ることが目的ではなかったため、防寒が十分ではなかったのだ。このままそこに留まったら、風邪をひいてしまう気がした。

 熱さと冷たさが混ざり合っている、札幌の夜。少なくとも、私の居場所はなかった。

 頑張れ、と思った。思いは誰にも宛てられていない。誰にも届かないだろう。誰を励ますわけでもない。つげ義春先生のとある短編漫画を思い出す。タイトルは忘れてしまったが。ただ、「頑張れ」という思いだけがあった。

 「楽しさ」が長く続くように。「笑い」が長く続くように。

 

 地下鉄の駅に向かって歩き出した。

「本を読み終える」という思想について、読書メーター、感想文

 岩波文庫の「宮柊二歌集」を読んでいる。

 拾い読んでいる。

 

 適当に気になったページを開き、そのページから何ページか読み進め、そして疲れたら本を閉じる、ということを何度も繰り返している。であるから、いつまで経っても読み終わらない。読み終わるはずがないだろう。

 同じ歌を繰り返し読んでいるに違いない。読んでいて、それに気づくときがある。だが気づかない時もあるだろう。僕は読んだことを忘れてしまう。既に読んだ歌を、初めて読む歌として読んでいた可能性も大いにある。

 だから僕は、宮柊二歌集をいつまでも読み終えることがない。

 

 「読み終える」とはどのようなことなのだろうか。

 読んだ歌にひとつひとつ印を付けていくとしよう。だんだんと文庫には印が増えていく。初め、印をつけることは楽しいだろう。開いたページはどのページも無印であり、印がつけられることを待っているのだから。

 だが時が経つうち、印がついていないページを探すことが難しくなっていく。開けば、どのページにも印が付いている。だがすべての歌に印がついているかは分からない。僕はいらだちを覚えるかもしれない。印がついていない歌が本のどこかにひょっとしたらあるのかもしれない、だがすぐには分からない、ということへ。確かめるため、僕は本を最初から順番に手繰らなければならなくなる。

 そのような行為を経て、すべての歌に印がついたとしよう。

 すべての歌に印がついたということは、僕は「宮柊二歌集」を読み終えたことになるのだろうか。普通に考えればそうだろう。だが、どうもおかしい。だって本に印をつけていない僕は、「宮柊二歌集」を読み終えられないのだった。なぜ、印をつけただけで読み終えることが可能になるのだろうか。どうも不思議である。

 「読み終える」とは何のことなのだろう。 

 

 「読み終える」とは普通、「本の中身をすべて読んだ」ということを意味しているはずだ。始めから終わりまで直線的に本を読みきったとき、人は「本を読み終えた」という。

 だが、ランダムにページを読んでいく場合はどうだろう。ランダムにページをめくる、そしてすべてのページを読みおえたとき、このときもまた「本を読み終えた」ことになるのだろうか。

 どうも僕は違う気がする。

 確かにこの場合もすべてのページは読み終えている。だがランダムにページをめくるという作業はまだ終了していないのではないか。僕は読んだことを忘れてしまうのだった。既に読んだページを僕は、全く新しいページとして読んでしまうことが可能である。だから僕は本を読み終えない。

 「本を読み終えた」ということは、「本の中身を全て読んだ」という事実と、まったく等しいわけではないのだ。

 「本の中身をすべて読んだ」場合でも「本を読み終えない」ことは可能である。ランダムにページをめくる場合がそれだ。だから「本を読み終えた ⇔ 本の中身をすべて読んだ」ではない。「本を読み終えた ⇒ 本の中身をすべて読んだ」である。決してふたつは同値ではない。

 「本を読み終えた」ならば「本の中身をすべて読んだ」のだろう。だが、その逆は決して成り立たない。

 

 ここまではまだ常識的な推論の範囲にある。だが僕は、常識を離れて、さらに次のように疑っている。

 「本を読み終えた」とは、「始めから終わりまで本を読んだ」というある「立場」の表明でしかないのではないか。例えば、「私は神を信じている」のような。それは「~である」という立場の表明であって、決して、「~した」という行為の表現ではないのではないか。

 「本を読み終えた」とは決して、「本の中身をすべて読んだ」というような、具体的な行為を意味してはいないのではないか。これが僕の疑いだ。

 一般に、人は本の中身を忘れてしまう。すべてを覚えることは(少なくとも僕には)できない。「すべて」を維持することは普通、無理なのだ。それなのに、「本を読み終えた」という文章は、まるで「本の中身をすべて読んだ」、そしてそれをあたかも「維持している」ことのように聞こえてしまう。本の中身をすべて「支配」し終えたことであるかのように、聞こえてしまう。確かに一応本の中身をすべて読んではいるだろう。しかし僕にはそのような表現が恐ろしく感じる。

 「忘れる」という確かな事実が、「本を読み終えた」という言葉によって、隠蔽されてしまう気がするのだ。

 本を読み終えることなど不可能なのではないかとすら、僕は疑っている。読書とは本質的にランダムにページをめくり続ける行為と全く変わらなのではないかと。忘れるという事実に脅かされながら永遠にページをめくり続けること、めくり続けなければならないこと。読書とはこのような「悪夢的な行為」なのではないか。

 「本を読み終える」とはこのような悪夢から目を背けるために生み出された戦略的な「思想」のように僕には思える。思えてしまう。本は読み終えられないという悪夢から目をそむけるため、人は、「本を読み終えた」と信じてしまうのではないか。

 空想である。

 

 話を変えたい。

 「読書メーター」や「ブクログ」といった「読み終えた本」を記録するサービスが存在する。それらは本の感想を記入したり、自分と同じ本を読んだ人を探したりできるSNSとしても機能している。

 僕は一時期「読書メーター」を利用していたことがある。だが上手く馴染めなかったため、アカウントは残しているのだが、更新を完全にやめてしまった。

 その理由を考えている。

 おそらく僕は「本を読み終える」という「思想」に馴染めなかったのだ。「始めから終わりまで本を読んだ」というたったそれだけのことを通して、「本を読み終えた」などと言ってしまえる空間、そこに僕は居場所を作れなかった。

 昔の僕はそうではなかった。むしろ僕はそのような「読書メーター的空間」の方にいた。「本を読み終える」という一般的な思想を無邪気に信じていたことがあった。そのころ僕は、これとは別のブログに、毎日のように読書感想を書いていた。「読み終えた本の感想」などと偽り、あさましい散文を書き散らかしたのだ。悔いるべき過去としてそれは存在する。

 僕は回心してしまった。

 本を読み終えることはできない。僕は今ではそう信じている。これはおよそ一般的な思想ではないだろう。だから僕は「読書メーター」を利用する一般的な人々に、「本を読み終える」ことを信じる人々に、うまく馴染めなくなったのだ。本を読み終えられない人にとって、読み終えた本の記録など、不可能だ。

 これが正しい理由であるのかは、僕のことであるのだが、分からない。

 

 しかしそれでも、『読書と短歌のブログ』と銘打ったこれとは別のブログを動かすために、できることはないのかと僕は考えている。僕の立場から読書感想を書くために。

 例えば僕は、「読み終えていない本の感想」を書くことは可能なのかと考えている。決して本の全体を網羅しようとはしない、本に自分が包まれているような感想。忘却と真摯に向き合う感想だ。まだ、勝機は見えない。正気ではない。だが考えることは楽しくはある。

 僕は果たして読書感想を書けるのか。分からない。ただ、向き合いたい。

 

夜の散歩、氷点下、暖かさ

 昨日の夜、20時くらいから、2時間ほど街をぶらぶら歩いた。

 私は散歩がすごく好きだ。深夜徘徊は特に良い。

 歩きながらいろいろなことを考える。そして、そのほとんどを忘れてしまう。今は何も覚えていない。それでいい、そう思える。忘れてもいいことがたくさん生まれるから、私は散歩が好きなのだと思う。

 短歌のような、そうではないような適当な散文を、スマートフォンでツイッターに投稿しながら歩いた。

 引用しておく。

 

 

 電気を全て消しても部屋のあちこちがかすかに光る僕たちの国

 

 雪の溶ける音が全く聞こえない夜に何ができるのだろう

 

 

 なにひとつ持たずに散歩していたら神に間違えられてしまった

 

 駐輪場が雪に埋まっていて僕は眠る誰かのチャリを思った

 

 雪を踏みながらしゃりっと噛むグミがわりと普通でなんかさみしい

 

 コンビニに出入りするたび白くなる景色は僕のメガネのせいだ

 

 

 駅行きのバスにふたりのおじさんとひとりの女子学生が乗ってた

 

 特に買うわけじゃないけど百均でつっぱりポールを品定めする

 

 みとめ印が無数に突き刺さっているみとめて欲しい人の一覧

 

 

 人間の黒眼をひとりで見つめていると宇宙から灰色の雪が降る。

 

 

 マフラーを巻くのを忘れてしまっていた。スマートフォンを操作するため、手袋も外していた。手先がひどく冷たかった。途中、コンビニに何度か立ち寄り体を温めた。そうしなければ、凍えていただろう。

 店内に入る。メガネが白く曇って、何も見えなくなる。見えない視界の中で、私は、「文明の暖かさ」を思っていた。「いらっしゃいませ」という、マニュアル通りの店員の声。「文明の」だなんて、大げさだろうか? しかし、氷点下の街から逃げこんだ「暖かさ」を、それ以外になんと呼べばいいのだろう。

 私の手には、文明がぎゅっと握られていた。私の視界は、文明によって白く染まった。

 確かに、それは「暖かさ」だった。

 

 深夜の街はひどく寒く、それでも街灯は輝いていた。氷を踏みながら、私は下宿に帰った。

言葉のセンス、現代詩、私

 根拠や裏付けなど全くないただの感想にすぎないのだけれども、書く。

 

 いわゆる「現代詩」(といっても私が知るのはほとんど短歌だけなのだが)、あるいは「現代詩っぽい文章」は、どうも、「言葉のセンス」さえあれば誰にでも作れる詩(文章)であるような気がする。

 言葉のセンスさえあれば、誰にでも同じような詩(文章)が作れる。「平均化」した詩。そんな詩が、多いような気がする。

 単なる気のせいかもしれない。

 「言葉のセンス」がなければ詩は作れないのだろうか。

 

 言葉のセンスとは、まあ、「才能」のようなものだろう。言葉を嗅ぎとる嗅覚、正しく配置するバランス感覚、など。

 とすると上の文章は、「才能がある人にしか詩は作れない」、と言っていることになるのだろうか。そういうことが私は言いたいのだろうか。どうも、違うような気がするのだけれど。

 

 「言葉のセンス」とはなんだろう。

 

 繰りかえすけれども、ここに書かれていることは単なる個人的な感想でしかなく、実感には個人差がある。微塵も普遍性を持ち合わせない。私が詩に触れる場所は、ツイッター上、および書籍しかない。

 その上で書いている。狂った文章だ。

 言葉のセンスによって書かれた詩。そこに書かれているものは、果たしてなんなのだろう。言葉である。それは間違いない。それでは、それは、「言葉を用いて書かれた詩」なのだろうか。それとも、「言葉によって書かされた詩」なのだろうか。

 このような問いが私の中に耐えず湧き上がる。

 「私」が詩を書いているのか。それとも、言葉を感じ取る「私の才能」が、いや、言葉それ自体が、「私」に詩を書かせているのか。

 「私」は詩を書いているのか。

 考える。分からない。

 

 どうも、「言葉によって書かされている」詩が、多いような気がする。そのような「皮膚感覚」が私にある。「皮膚」が、最近、ひりひりと反応する。

 といっても、この感覚は、ツイッター内で生じたものでしかないのだが。

 インターネットの特徴なのだろうか? 言葉によって作られた世界。

 

 読んでみれば確かに詩として読める。面白い。美しい。楽しい。怖い。しかし、言葉でしかないような詩。現在の「意味」を可能にしている、私たちの現在の「文化」、「文脈」、それが失われてしまったら、同時に失われてしまうような詩。

 うまく言えている気がしないのだけれども、そんな詩が多い、ような気がする。

 文脈依存。それはネット上に流行する、さまざまなスラングにも言えることかもしれない。

 ツイッターでは、そんな詩ばかり、評価されてしまうような気がする。

 言葉を嗅ぎとるセンスのみで書かれた、「詩のようなもの」。

 

 それとは別の、私たちと「文脈」を共有しない別種の知性にも「詩」として理解される、そんな詩は可能なのだろうか。

 言葉のセンスとは関係のない詩。言葉を統べる詩だ。

 益体もないことを考えている。私にはよく分からない。

アパートの跡地について

 下宿先からしばらく歩いたところに、ちょっとした更地がある。小さな公園ほどの空間が、交差点の一角にどんと広がっている。先日まで古めかしいアパートが建っていた。現在一面には、まっさらな雪が広がっている。

 アパートがなくなり、交差点の見晴らしがよくなった。するとなぜだか、周囲の建物の見え方も変わった。どの建物もみょうに輝かしく思えるのだ。開放感がもたらした錯覚だろうか。雪の反射の影響だろうか。そのどれも理由として正しいのだろう。

 しかし私はそれ以上に、アパートの「喪失」を思っている。

 

 古いアパートだった。木造だっただろう。真新しいマンションが周囲にいくつか立ち並ぶ中で、明らかに浮いている建物だった。「ノスタルジア」という言葉を思い浮かべている。つまりは、そういう建物だ。

 アパートの住人はどのような人なのだろうかと、私は何度も想像した。想像はいくらでも弾んだ。様々な生活や物語が、私の頭には思い浮かんだ。もし私がここに住んでいたらと、夢想したことも何度かある。住居としての機能性は低いだろう。実際に住もうとは思わない。だからこそアパートは、「物語」の舞台になりうる「魅力」を、私に感じさせていた。

 秘密の空間のように思えていた。そこには物語がたくさん詰まっていた。

 

 それからそう遠くはないうちに、アパートは解体されてしまった。解体工事の途中だったのだろう、アパートが半分ほど崩されているところを私は偶然に目撃した。

 建物は半分ほど潰されていて、博物館の展示模型のように、断面が外気にさらされていた。それぞれの部屋が剥き出しにされ、道行く人々の視線にさらされていた。本来は秘められているはずのアパートの内側が、私たちの前にさらけ出されていた。当然、部屋は空っぽだった。

 そのとき私は、アパートがなくなることを実感した。それは奇妙な「喪失感」だった。そもそもアパートは、私のものでもなんでもないのに。

 

 私がアパートの住人を思っていたころ、アパートに住人などすでにいなかったのだ。だからこそアパートは解体された。そして「空っぽ」がさらされた。

 アパートに秘密など存在しなかった。

 私は何を想像していたのだろう。誰も住んでいないアパートから、私は物語を受け取っていた。空っぽのアパートから生まれた秘密の物語。存在しない物語。「牛の首」の怪談を私はいま、思いだしている。すべてはそういうことだったのだろうか。

 本当はすべて空っぽなのかもしれない。すべてとはなんだろう。私たちの想像。その原因。

 他愛もない空想である。

 

 今日、散歩がてら、アパートの跡地に立ち寄ってみた。アパートの跡地は、今も跡地のままだった。

 そこにはまだ、何も建っていない。