青春はまだまだこない?

 なにかものを書かなければやっていられないとおもう、と同時に、なにもものを書いていられないとおもう。なにかものを考えられているという実感がない。というのは正確に事実をみるならば嘘で、依頼されてものを書いたり、仕事に関わるほうの論文を書いたりしてはいる。なにも生産をしていないわけではない。ものを書いていないわけではない。ではないのだが、もっとほかにやるべきことがあるのではないか、というあせりのような感覚がないといったら嘘になる。わたしの知らないところでさまざまなものが変わっていく。しかし、焦ってなにかよいものが生み出せるかといえばそういうことはない。とにかくやらなければならない、というおもいがある。なにを?

  稀風社の新刊のためにものを書く必要がある。さまざまに出される歌集や思想書などを読んで、考えをあらため、なにかを表明するべきとおもう。停滞している。しかし、停滞をわるいものと考えるのは、この有限の人生の一回生を有効に活用せよ、と述べる、資本主義というか、生産主義の価値観に毒された思考なのではないかとも同時におもう。日がな海を眺めてなにもせず暮らす人生は、わるくはない。他者の生き方と比較をすれば、困ることもあるだろうが、もしも世界にわたしひとりしかいないのであれば、わたしはわたしの人生をどのように蕩尽してもよい。短歌の総合誌をぜんぜん読んでいない。短歌にかぎらず、世界でなにが起きているのかわからない。だからなんだ? それでもものを書かなければならない、ともおもう。当然そのためには読まなければならないともおもう。

「時間のかかる短歌入門」の続きを鈴木さんから受け取ってから、続きが書けないでいるのは、最後にわたしが文章を書いてからもう2年以上経っていて、そのまえにわたしがなにを書いていたのか、なにを書こうとしていたのかまったくおもいだせなくなっていて、それがなぜなのかといえば鈴木さんが原稿をそれだけの期間放置していたからで、わたしのなかにはいまのわたしとそれまでに書いていたこととのあいでの深い断絶がうまれてしまっているのだが、理由はそれだけではないとおもう。青春の終わり。いろいろなひとが、死んだり、短歌をやめたり、離婚をしたり、結婚をしたりする。

 

青春の終わりを告げられる人の胸の明かりをぼくは集める

 五島諭『緑の祠』

 

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった

 吉川宏志『青蝉』

 

 話はかわるが「花水木の道」の歌について、書かれていることだけを読むならば、愛を告げることができなかったのは、「花水木の道」なのかもしれないとおもう。少なくともテキストはこのような読み方を否定しないだろう。つまり、

 

例1

[花水木の道があれより長くても短くても](わたしは)愛を告げられなかった

 

ではなくて、

 

例2

花水木の道が[(なにかが)あれより長くても短くても]愛を告げられなかった

 

と読むこともできるということ。

 あるいは例1についても、(わたしは)を補う必要はなくて、(あなたは)とか(彼女・彼は)を補ってもいいということ。

 それでもわたしたちは例1のようにふつう(わたしは)を補おうとする。これは日本語という言語が主語(主題?)をよく省略するからで、わたしたちは文脈を読んで、(わたしは)を補うのがふつうであると考える。花水木は愛を告げないよねー、と考える。それがほんとうにふつうなのかな。

 逆にいえば、歌人は文脈をさらによく読んで、これを愛の告白に成功した歌として読もうとしてきた。ここで読まれている文脈というのは、調べの効果と言い換えることもできて、

 

花水木の|道があれより|長くても|短くても愛を|告げられなかった

[6]-[7]-[5]-[9]-[8]

 

の字余りがたっぷりでゆうゆうとした文体、特に四句目9音の大字余りに、おおきな自己陶酔の感覚を歌人たちは読むのだとおもう。さらにいえば「愛を告げられなかった」というふしぎな言い回しもこの深読みを補強している。われわれの言語は「好意」を告げることができても「愛」そのものを伝えることはできない。しかしここでこのひとは自身の「愛」を伝達可能なものであると考えている。このような浪漫主義的人物像がつくられることで、ここに告白の「失敗」ではなく「成功」が書かれているのだ、という深読みを促そうとするのだとおもう。

 話は変わる。

 

青春はまだまだこない 初冬のうみべにきらめく歯列矯正

 谷川電話『恋人不死身説』

 

 青春という言葉が読まれた歌ではいまはこの歌がいちばん印象的なのは、ここには、青春がこないと述べることで、逆説的にもっとも青春のふかいところが描かれようとしている、と感じるからなのだ。学校の文化祭や体育祭や修学旅行で「青春」をしようとわたしたちが考えるとき、ありうべき「青春」像をまず想定し、そこにみずからを接近させようと考えるとき、すでにそこでは「青春」は終わってしまっている。青春は記憶のなかにしか存在しない、と書いたのは『誰にもわからない短歌入門』だったとおもうのだが、生きながら青春を自覚するときその青春はあなたの青春ではない。だれかの記憶をあなたが追体験しているに過ぎない。「これが青春だよね!」と述べることができるのは、それがすでに誰かに先に生きられているからに過ぎなくて、だからそれはあなたの記憶ではないのかもしれない。しかし振り返って「あれも青春だったのか」とおもう、どうでもいいような瞬間が、逆にもっとも唯一無二な、あなただけの青春である、とおもう。なにが言いたいのかわからなくなってきたけれど、これは日記なのでよい。

 だから、「青春はまだまだこない」というフレーズは尊い。「まだまだこない」と述べることで、他者の記憶による介入を避けて、いまは唯一のいまとして、海辺にきらめくことができる。