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人ごみを歩く速度について

 人ごみという言葉がある。

 『人がゴミのようだ』という有名なセリフがあるけれど、それとはおそらく関係がない。辞書によれば人ごみは「人混み」である、あるいは「人込み」であるらしい。人が混み合っていることを意味するのだろう。ゴミは「塵芥」である、「ちりあくた」である。確かにゴミは混み合ってはいるが、人ごみとはおそらく関係がない。

 

 朝、学校までの道を歩く。最中私は人ごみに出会う。駅から吐き出される学生たちはそれぞれの方向に列をなす。私はそのうちのひとつに合流する。

 思ったのは、速度だ。

 人ごみは人ごみの速度で動く。私はそれに合わせなければならない。私の速度が失われる。速度について、私の意志は関与しない。思うように歩くことができない。急いでいるのに、歩速は遅くなる。「大いなるもの」に付き従っている感覚を、私は今朝、歩きながら感じていた。

 人ごみ速度は誰のものなのだろう。

 それは決して私のものではない。私は目の前の「誰か」の速度に合わせているのだから。では速度は、目の前の「誰か」のものなのか。それもまたきっと違うだろう。誰かもまたその目の前の誰かに合わせているのだ。

 目の前の誰か、その目の前の誰か、数珠つなぎはやがて先頭のひとりに帰着する。速度はその「先頭のひとり」に由来するのか。そんな気もするが、違うようにも思う。

 

 「渋滞学」と呼ばれる学問があるらしい。それについて私はまったく知らないのだが、今朝、次のような推測をした。先頭のひとりにより渋滞の速度が決定するのだとしたら、「渋滞学」は学問として生まれなかっただろう。渋滞学が学問としてあるということは、簡単な法則によっては人ごみの速度は決定されない、ということを意味しているのではないか。

 人ごみの速度は、個人の意志には由来しないのだろう。もっと複雑な法則によって決定するのではないか。つまり、個人ではなく全体に由来するのではないか。

 人ごみの中で、私は全体に奉仕していたのだ。

 複雑系、自己組織化、カオス理論、様々な関連しそうなそうでないような学術用語が私の頭に浮かんでは消えた。「渋滞学」に興味が湧いていた。この興味が何かに結実するのか、そうでないのかは分からない。思いながら、私は学校に向かって歩いていた。