# 所記001

Twitter上でいろいろなひとがいろいろなことを書いている。トレンド、バズ、炎上、などの言葉で語られる〈流行〉現象は、「この〈流行〉に参加してください」というメッセージをもって、ひとびとをその渦中に呼びこもうとする。〈流行〉はひとびとを語らせようとする。
なぜだろうか。
〈言葉〉というもの、それ自体の生理もあるだろう。言葉は言葉をこいもとめる。いちど世界におかれた〈言葉〉は、みずからの意味を、文脈を、仲間をふやすために、他なる〈言葉〉をもとめつづける。だからひとびとは感想をかたりあい、批評を書きつらね、作品に鼓舞されあらたな作品をうむ。〈言葉〉の存在に気づいた「言葉を生む器械」たとえば人間は、〈言葉〉のために、あらたな〈言葉〉を生成する。「言葉を生む器械」の動作は自動的無意識だ。だが、やがてひとつの話題にたいする〈言葉〉は出尽くすだろう。〈言葉〉がほとんど出尽くしたとき、自然に「器械」は動作をとめる。〈流行〉は沈静化する。
あるいは〈流行〉が語られるプラットフォームの要請もあるだろう。たとえばTwitterをおもうのだが、TwitterというSNSの存在意義は〈言葉〉が語られることにある(ここでいう〈言葉〉は写真や動画や音声などもふくめた広義の言語現象ととらえてほしい)。あたりまえだが〈言葉〉がなければTwitterはない。ひとはふかくTwitterにひたるほど〈言葉〉を語りたくなってしまう、プラットフォームがそのようにつくられている。

Twitter上でなにかが炎上しているとき、その話題に言及しないひとを不誠実だとかんがえるひとがいる。その「不誠実」というかんがえは、あなたのものでもあると同時に、Twitterそれ自体のかんがえでもある。あなたはTwitterのようにものをかんがえている。だが、世界はTwitterではない。意見の表明はTwitterでなされなければならないものではない。Twitterがわたしたちにもとめるように〈いますぐ〉なされなければならないものでもない。Twitterは〈いますぐ〉をもとめるプラットフォームだ。だが世界は〈いますぐ〉のみによって成り立っているものではない。

〈いますぐ〉の〈言葉〉だけで構築された世界がある。そして世界はそれ以外にもある。〈いますぐ〉を連鎖させて拡大化したい、というTwitter的なかんがえは、おそらく現在の趨勢ではある。だが、そのオルタナティヴもゆるされてしかるべきである。語りづらい話にはのらなくていい。興味のない話題は無視してよい。日々に忙殺されているかもしれない。考えるはやさはひとによって異なる。そして〈いますぐ〉語りださないことは「かんがえていない」ということではない。「反応しない」ということは決して「肯定」を意味しない。「反応しない」ことで世界はどんどんわるくなってゆく、社会運動論的に間違っている、あなたはそうはおもうかもしれない。だが、そのような怠惰にも美徳はやどるということを、わたしは信じている。
(ということをかんがえるわたしの意見は、Blogというこのプラットフォームの意見とすくなからず一致しているのだろうが)

「現代短歌」9月号はまだ届かない。届いたとしてなにかを言う予定はない。

# 歌006

いろいろと書きたいことはあるはずなのだがいざWEBの空白を目の前にするとおもいうかぶことがなくなってしまうのだった。
若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』や永田希『​積読こそが完全な読書術である』をさいきんは読んだはずだった。また歌集もいくつか読むともなく読んだ(『青い舌』『地上絵』『リリカル・アンドロイド』『昼の月』など)。ページをめくったという意味ではそうだ。
かつてはできていたことがひとつずつできなくなっていく。好機をのがしてぼうぜんと消尽していく。それともいつか来る好機をまっているのだろうか。
いちども読まなかったたいせつな本を読む時間をつくりたいとねがっている。それさえ読むことができればまたものを考えることができるとねがっている。

せかいよりわたしが大事(かもしれず)教室をにげゆく雀蜂

# 歌004

北海道もすっかり夏めいて外をあるくとあせばんでくる。一年がすぎるたび、このあたたかさをわたしはなつかしくおもいだす。
夏がすぎると夏のことを、冬がすぎると冬のことを、わたしはすっかり忘れてしまう。
もしもわたしがいなくなったらわたしはわたしのことを忘れてしまうのだろうか。

もしもわたしがいなくなったら(水彩画)わたしはわたしをおもいだしたい

# 歌003

自分がそれをよいとおもうものを自分のために用意すること。たとえば、食べること、飾ること、あたたまること。このように、ものを書くことができるだろうか。ひとをよろこばせるためでなく、ひとにほめられるためでもなく、部屋をととのえ、みずからを着飾り、歌をうたうように、たとえば日記をしるすこと。たとえば自由帳に書き散らすこと。
「書くこと」はすぐにだれかことなる人に意味を伝えようとする。そのような伝達を目的としない「書くこと」、「書くこと」をただたのしむことが、しばらくできていなかったと気づく。
インターネットは伝達のための空間である。この傾向はますます加速している。部屋をかざることも、花をめでることも、インターネットにおいては簡単に、承認欲求のための、伝達のための行為になってしまう。だから、そのような「書くこと」は、むずかしいのかもしれないけれど。

"カイエ"とは"ノートブック"のことという、冬の定義の辞書をひらけば

# 歌001

今いる町は空が広い。晴れた日はすずやかな風がふきわたる。田面に青空が映される。はるかな頭上を綿雲が流れてゆく。ながれる雲はすこしずつかたちを変えてゆく。雲からみれば流れているのは地上のほうかもしれないとおもう。わたしたちは流されてゆく。

雲という名前のものがはるかなるかなたを流れゆく夏の空