完璧な本

 『六つの星星』を読んでいたら川上未映子さんが小説を書くことは苦しいと言っていて、なぜなら『絶対に完璧な本なんて書けない、ということが最初から分かっているから』と書いていてそうだよねーとおもいました。もちろんわたしは川上未映子さんではないからわたしのそうだよねーは空振りをしていて川上未映子さんのおもうとは適合していないのだけれど、わたしはそうだよねーとおもったのはやはり完璧な本なんて存在しないし完璧な本に憧れてしまうからなのだ。

 完璧な本はない。でも完璧な本により近い本なら例えばあって、聖書でもコーランでも論語でもなんでもよいのだけれども、より完璧ではないわたしの文章をつくって読ませることよりもより完璧であるその文章を読むほうが読者には「善い」ことなのだとおもうからわたしはできれば書きたくない。でも書く。わたしは生きているから書いてしまう。

 生きることと書くことは近いけれども違っていて、演じることと書くこともやはり違う。演じることの本質はコミュニケーションでありつまりは「いま」をよりよく生きること、「いま」を生きることをよりよく実感することなのだけれども、書くことの本質はいまにはない。書くことは過去と未来へ延びていくことであり、それはそもそも、現在同士を接続しようとするコミュニケーションの本源的な欲動とは価値観を異にして、書くこととは透明なすでに失われているその廃墟に自らの住まいを作ることだ。書くことの本質は「記録」にある。記録を伴わない書くこと、つまり口頭により「物語る」ことは演じることであり「いま」のためのコミュニケーションである。だが「物語り」に聴衆がい、聴衆がたとえば集落の子どもたちであり自らの「物語り」を集落の記憶として記憶し伝播してくれる可能性を有する時には、「物語り」は記録の性質を帯び、過去と未来に開かれていく。それはただのコミュニケーションではなく双方向的な時間への現実の内挿となる。

 それはそれでよいのだ。

 現在はコミュニケーションの時代というがそれ以上に書くこと=記録することはあふれていて、記録とは脳の専売特許だったはずが、紙の発明と、電子頭脳の発明が状況を大きく変えてしまった。記録が溢れすぎて身体が追いつかなくなる。わたしたちの「いま」を演じる身体が状況に追いつかなくなっているんだ。身体が悲鳴をあげている。

 だからわたしは不用意な記録を用意したくないしできれば自分も「完璧な本」=「完璧な記録」に近いものばかりを読んで、無駄なことに自らの身体を従事させたくないし書くことにより他人の身体をわたしの偏屈な自己顕示欲に傅かせたくないのだけれども、わたしはそうしながらもいまもまた書いている。他人も書く。世界には書きたい人が溢れすぎている。そのせいで生きることが切迫している。出口なし!

 川上未映子さんが断念せずに小説を書き続ける理由として『夢みる力』ということを述べていて、つまりそれは言葉がひとに夢をみさせる力なのだけれども、『完璧な本』という単語がその力によって川上未映子さんをひきつけて川上未映子さんに川上未映子さんの小説を断念させずに『完璧な本』の方向へと書かせているという構造があるという。それはよい。でも凡人が言葉に惑わされすぎるのは健やかに身体として生きるためにはあまりにもしんどい。なんとか活路を見出さなければ。そう、活路を。

ブログを書けないことを書く

あの夏のわすれられたプールサイドで かんたんに死ぬなんていうなよ

 

 ブログを書くことをよくやっていたころはパソコンをよくやっていたのだけれども、さいきんは実験がいそがしいにくわえてあまりパソコンをやらなくなって、iPadやそういった端末でインターネットをすませてしまうのであまりブログも書かなくなった。長文を入力しやすい「機構」というのがたぶんあってキーボードはそれにとても近い。いっぽうでつるつるのディスプレイは長文入力にあまりむかない。かといって、長文入力用に端末と無線で接続できるキーボードなどを買うような甲斐性はないしお金もないからわたしはどんどんブログを書かなくなってしまった。

 書かないことと短歌は相性がよいとおもうけれど、だから正岡子規のような長文を書くために適した肉体を持たないひとをうけとめられるのが短詩系文学であっただろうし、それは短詩系文学の長所であるか短所であるかわたしは知らない。すくなくとも大作をじっかんしたときの世間一般の求める「感動」を短詩系文学が生産するのはとてもむずかしくて、それは肉体に関する負荷がすくないからというのも理由の一端にはあるのではないかとおもう。

 でも、長文の思考はたいせつで、さいきんわたしはそれを怠っているせいでろくにものがかんがえられないしどんどんばかになっているような気がする。だいたいわたしは文学にも明るくないし、専門であるところの科学にもからっきしである。物理学も数学もわからないから勉強したいといいながらもう大学4年生になってしまったし、英語も話せない。和歌がぜんぜんまったくわからないのに短歌をつくっているけれど、和歌がぜんぜんまったくわからないばかなわたしの短歌をひとにみせて、ひとの時間を奪うのはなんだかとってもいけないことのような気がする。やるべきことをしっかりやってこなかったしちゃんとやったこともわすれてしまって、もうぼつぼつの日焼けにちぎれたふるい輪ゴムみたいな神経がわたしにははしっているのではないかって、そんなことは生理学的にありえないけれど、そんなことをおもってしまうような生活をしてしまう。

 だからこそいまからしっかりちゃんとぜんぶをやりなおして、記憶して、構築して、ちゃんと肉体を鍛えるように長文の思考を形成していかなければならないのだろうし、たとえば和歌を覚えるし、源氏物語だって読むし、英語を話すし物理学だってすいすいと展開する。そうやって世界をもっとうまく呼吸するちからがあって、はじめて、世間一般のたかいひとびとののべるところの「恥ずべき」生活を脱却して、りっぱに身を修めることができるのではないかと考えてみる。『源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり』というようなことを藤原俊成というひとがのべたらしくてまあこういう風なことをのべているひとはいくらでもたぶんいてそういうひとが「よい」とするのはようするに自分の理想だしそういう無数のひとびとの理想すべてにかなうように生きているひとなんてほんとうにまったくいないのかもしれないけれども、でも誰かの理想にかなうことが気持ちがよいとおもうのはけっきょくのところ偽装された性交なのかもしれないけれども、まあでもだれかの理想にかなうのはたのしいしうれしいしきもちがよいのだとわたしはおもう。そして理想にかなううちに肉体はどんどん構築されてつよい体系としてわたしがたぶん世界のなかに屹立できる。あるいはいまのわたしはせかいでまったく屹立していなくてべちゃっとした粘膜状なのかとわたしをかんがえてみるけれど、それが正しいのかは知らない。

 で、で、短歌のみならず小説を書いてみたいと考えていてだってわたしはそもそも小説が好きだったし小説を書きたいし小説を書きたいのだけれども、でも、小説を書けないようにおもうのはそうやって肉体を構築することをすっかりわすれてしまったからで、受験勉強をしていたころは構築するということになれっこだったから構築するように勉強をして構築するように小説を書いていたのだけれども、でも、構築と短歌ということはきわめて相性が悪いようで、わたしはどんどん構築をにがてになって短歌ばっかりよんでしまってべちゃっとした粘膜状になって小説が書けないしブログが書けないし勉強ができないしあたまがわるい。短歌だって構築をちゃんとしないから和歌が全然わからないし、現代短歌もわからないしたいへんに遺恨なことになっている。せめてでもやっぱりこうしてべちゃっとしたことを書くのはよいのかなどうなのかなわからないということをがっと勢いに乗って書いてみてこれがなにかになっていればよいし、すくなくともこれはこれでおもしろいというかちょっとでも文学っぽいなにか、あるいは「文彩」みたいなものがしょうじているかもしれないなとおもうからわたしはこの文章を公開しようとしているわけで、こういういっぱんにゆめみる建築のような構築とは違う形でも焼成されないなまの粘土状でもよいからなにかを書いてそれがかたちになってくれればいいなとわたしはおもっていまもこうして書きながら自己顕示欲をたれながしているし、またこうして反省をさらすことを通じてまた焼成をできるような書くことをすこしずつできればよいようにわたしはおもう。というわけでまたたまにこうしてこの日記をブログに書くようにこれからもまたしていきたいなとおもうようになりました。いえい。

文学フリマの感想

 北海道大学短歌会という組織から、また稀風社という組織から、それぞれ頒布された冊子がある。私は短歌などを寄稿した。大阪府は堺市文学フリマという同人誌即売会が開かれ、私は、いた。「第16回文学フリマin大阪」などとあちらこちらには書かれているとおもう。北海道大学短歌会の冊子には短歌連作「春と痛覚」と一首評を、稀風社の冊子には短歌連作「西暦二〇一二年三上春海短歌記録五〇首」と俳句連作「冬鳥へ」を書いたが、それがなんだ。なんでもない。

 何のためにするのかと問えることと問えないことがある。問えないとは、問うことができないという可能性の問題と、問うべきでないという当為の問題に二分されるが(例えばある種の闘争は目的を問えないが)(それに戦争を含めるべきかはわからない)。

 文学は何のためにあるのか。私にはわからない。あるいはそれはやはり問えないことかもしれないが、私は問うてしまう種類の人間であり、目的性を忘れられない。私はスケールが小さい人間だから、せいぜいが一〇〇年規模の未来しかもっぱら想像していない。一〇〇年後にも短歌は可能だろうか、もちろん可能だ。いま、口語で書くべきか、カタカナを使わないべきか、などと論争をするひととたちがいるが、すべてどうでもいいだろう。「べき」がなんだ。『古典』が存在するのであれば、古典感覚は復活する。古典感覚を無理に「べき」論によって維持させようとする必要がわからない。古典感覚を生き残らせるためには、「べき」論を用いるのではなく、古典を残すべきなのだ。古典はいまあるし、これからもある。何かを否定するのではなく、肯定することのみが力を生じる。「書くべきでない」と述べるのは害悪だ。「書こう」と述べることこそが必要悪だ。

 だからそれは、古典への通路を、わかりやすい形で存在させておくということにもなる。私には古典感覚がないが、それは通路に触れなかったからだ。通路とは例えば文人である父、あるいは見識豊かな教師だ。いま古典感覚がもし失われているとしたら(もっとも、私はこの前提に違和感を覚えるが)(仮に失われていると仮定して論を進める)、それは通路がないからだ。父は死に、教師は失墜した! 一〇〇年後の私たちが一〇〇年前の私たちと同じように古典に触れられるように、古典への通路を保存することが必要ではないか。これは無意味な「べき」論だろうか、そうだ。だから、言い換える。「べき」ではなく、「する」のだ。私は通路になりたい。なるのだ。

 二二世紀の私たちのための古典への通路に私はなりたい。特定の主義を形成したくない。私は回廊だ。私を踏みしだいて、未来の天才と過去の天才が交通すればよいだろう。私は非凡ではない。せめて、私が土台になればいい。一〇〇〇〇年後に残る文学を私は作ることができないはずだ。しかし、作りうる天才のために、その経路になら私はなれるのではないか。天才は私を過ぎ去って、私のことなど記憶しないでよい。

 

 文学フリマには天才になりたい人が溢れて、生理学的には楽しかったが、論理的に私は状況を悲しむ。どうせ、これでよいのだけど。すべて消尽する、そして流転する。永劫回帰だ。すべて善いのだ。そして、だからこそすべてだめだ。天才になろうとするな。読まれようとするな。見られようとするな。私は空間になりたい。見ることを可能にするのが空間だ。天才は光だ。空間はエーテルだ(もちろん、エーテルとは比喩でしかない)。私は見られたくないし、エーテルでありたい。記憶されることに意味はないし、記録されることにも意味はない。自己を保存しようと私はしない。私は天才を生きさせたい。

 もちろん、以上は抽象的な宣言にすぎないし、単なる気の迷いでもあるだろう。悲しみが見せた幻燈なのだ、すべて。でもだとしてもその幻燈を、私はここに記録する。私は天才じゃない、生きて、死ぬんだ。

 天才になりたいものたちよ、自分のために書け。生活を愛するものたちよ、他人のために書け。書け、書くんだ。書き続けろ!

 

 以上、文学フリマが楽しかったという話。

ミカミハルミ日記

 前の記事を書いたのはすでに去年の話であり、書くべきことがあるわけではいまだない。ブログの名前をいつのまにかミカミハルミ日記に変えたのはいつのころだったかなんて思い出せない。今は2013年の4月だ。文学フリマに参加するための準備をしていて、僕はやがて飛行機で大阪に向かうだろう。第16回文学フリマin大阪。西だ。それとも行くべきは「中央」だろうか?

 短歌は書き続けている。小説はあまり書かない。俳句を書き始めた。ブログは、ツイッターは、現実はどうだろう。本を読んでいる。音楽はあまり聴かないかもしれない。美術にはほぼ関係しないし、映像も同じ。でも生きている。

 眠れない夜に、ラジオを聴くようになった。中学生のころ、父からもらった携帯ラジオは大陸からの電波を拾って、異国の言葉を中学生の僕の夜間生活に染み込ませた。言葉の意味とはなんだろう。しんしんと雪の降りつもる夜には電波も乱れ、大陸の言葉はますますあやしくなる。僕はそのわからない言葉を聴くことによって何かを感じようとしていたのだろうか。それは言葉の意味ではなく、では、なんだ。わからなくてすぐにチューニングをいじり、日本語に合わせたこと。

 そして今。インターネットはクリアに接続され、そこに雑音は混入しない。眠れない僕を襲うラジコにはノイズがなく侵入者がいない。僕達はますます、見たいものだけを見ようとするし、聴きたいものだけを聴こうとするだろう。だからこそ、欲望がわからなくなっていく。何がしたいのかわかっているひとなど、はたしているのだろうか。『やりたいこととやるべきことが一致するとき、世界の声が聴こえる』?

 何がしたいのかわからないという病があるが、僕は読んで書きたいだけなのだろうか。あなたは何を欲望しているのだろうか。そして、社会は何を欲望しているのだろう。考える前に生きなければならない。生きていなければ考えられない。生きることと労働することはあまりにも近しいから、問題は混迷を極めている。考えながら労働することはまだ、可能なのだろうか?

 わからない。考える。考えない。考えない。書く。書かない。書いた。書こう。

 ということを僕は、考えていない。

ミカミハルミの展開図

 このブログのタイトルがまた変わって、ミカミハルミの展開図になった。スピッツを聴きながらキーボードを叩いていて、酔いはすでに覚めている。書くべきことなどあるはずがない。でも書く。だから書く。

 

 文学フリマというイベントがあって稀風社というサークルから短歌誌を出した。稀風社ブログというブログに私はテクストを流し込んでいたけれど、文学フリマの会場には行かなかったのは、行こうとおもえば行けたのだけれどもお金がなかったからであり文学フリマには代わりに私の人形が出た。

 私がTwitterやブログで使っているアイコン、あるいはアバター(?)は、『キャラクターなんとか機』というツールをお借りして作成したものでありすでに私の身体よりも私、少なくともインターネット上においては。かわいい。それがグラフィグという組み立て式の人形になった。プリンタを使ってプリントアウトすれば誰でも作れる。誰の机にも私(のアイコンの人形)が乗りうる。

 私。

 

 名前について考えている。ひとりにひとつの名前というのは時代的制約の課した偶発的事実でしか無く、幼名、戒名、……、ひとりの人間の名前はいくらでも変わって差し支えない。変わることが本来的であるわけではなく、どちらでもよいということである。

 私はカミハルという名前を名乗っている。あるいは、ミカミハルミという名前を名乗っている。あるいは、私には私の保護者たちによって付与された名前もある。あるいは、私は新しく別の名を名乗ることもできる。だから、私の名前は収束しない。

 では私は。私は収束せず、発散するのか。私は個としてありうるか。それとも私はそのつどの状況に分散され拡散されていくのか。

 プリンタからプリントアウトされる私は私ではないか。私であるか。

 

 信念はあるが根拠はない。だからこの件について続きは書かない。

詩について最近思うこと

 詩集をさいきんよく目にする。あえて、「読んでいる」とは書かないでおく。

 例えば『活発な暗闇』という、小説家の江國香織さんが編んだ詩集をぱらぱらとめくっていて、どの詩もおもしろくて、感動している。

 詩だ、とおもう。

 でも、それだけでしかない。

 

 私は短歌や俳句や小説やブログを書いたりする。でも、詩を書きたいとおもったことがあまりない。詩をみて、感動することは多い。でも、そのような「感動」を自分もまた詩によって創造したい、とおもうことがあまりない。

 詩の感動、それを表現すること。

 

 すばらしい詩はたくさんある。詩の感動と呼ばれるものは、あるだろう。

 でも、それを新しく、「再生産」することに、果たしてどのような意味があるのだろう。

 

 詩を書くひとは多い。詩を書く人はなにを考えているのだろう。詩を書こうとしているならば、つまり、すでにある詩と同様の感動を再生産しようとしているならば、それはほとんど不要な(自己満足な)行為なのではないだろうか。

 詩を読んで感動した、その感動を、自分もまた書いてみたい……?

 それよりも、自分が感動したというその詩を、ひとに教えたほうが、効率的なのではないだろうか?

 

 詩はだから、閉じているのではないかという気がする。「詩的」なものが先にあり、現代の詩人を志すひとたちは、そのパターンをいたずらに増やしているだけなのではないか。「詩的」なものの繰り返しになっていないか。確かに、そのようにして生み出される作品は「詩的」であり、感動するのだ。技術的に優れていて、ひとに容易に真似できるものではない。でも、それが新しく作られる必要はまったくない。だって、似たものはすでにある。先人の作品をあえて忘れて、新しいまったく同じ「詩的」作品を読む、そんなの、先に生まれた作品が悲しいじゃないか。

 「詩的」なものを作ろうとするのはだから、私にはかなしいことにおもえる。

 しかしでは、なにを作ればいいのだろう?

 

 現在ある「詩的」のパターンを抜けだして、新しい、まったくなにもない空白に「詩的」なものを創りだしてみる。

 新しい詩。登場してすぐには、誰にも「詩」であると気付かれない。でも、後世になってこれは詩だと評価される。そういう詩をだれかが書いていることに、まだ、誰も気付いていない。

 そして、それだってすぐに新しさを失ってしまう。

 

 人間の感情、つまり、脳内の状態は有限のパターンにわけられる。詩でひとを感動させるよりも、化学物質でひとを感動させるほうが、効率的だ。

 しかし、詩はひとに向かう。ひとに触れることのない詩に意味はない。詩の目的はつねにひとにある。だから、詩の効果を化学物質の効果と区別することは決してできない。

 詩の結果、つまり人間の反応に、詩の特異性、意義を見出すことはできない。

 

 詩は未来に向けての記憶なのではないか。

 歴史資料になる詩。(ここにいる私のことではなく)「我々」というひとつの記憶がいま・ここにあったという、それだけを記録すること。詩に普遍性を求めてはいけなくて、ただひたすらに、陳腐であること。ベタに、現在に結びつくこと。現在に言葉という楔を打ち込むこと。

 それが目的か。

 いや、それも違う気がする。

 

 なぜ詩は書かれるのか。その理由は簡単だ。詩を書くことによって快楽を覚えるひとがいるから。

 なぜ詩は読まれるのか。それもまた、読者の快楽によって結論付けられる。

 そして、だから、すべて無意味だ。流れ去る。死ぬ。消える。それでいい。

 

 でも、詩という行為はなくならない。それでいいのかもしれない。いや、それだからいいのかもしれない。

 人間は詩を作り続け、詩を忘れ続ける。ときどき思い出して、楽しくなる。

 声を出して名前を呼ぶ、振り向いてもらって、嬉しくなる。そういう無意味さを愛してみる。詩を書くことと何も変わらない。

 

 やはり、私は詩を書く理由を持たない。短歌も、俳句も、小説も同じく。あえて言うならば、暇だから。ひょっとして、歴史資料になる。それだけ。それでいいのだと、いまはおもう。

 

 終わり。

戦国コレクションについて書くことなど

 戦国コレクションというアニメをちょっと前まですごくわくわくしながら観ていたのだけれども、視聴時の感動を、どんどんと忘れている私がいる。もう、あまり覚えていないのかもしれない。あれだけわくわくしていたはずなのに、全部、いつの日か忘れてしまう。

 感動を記憶することに、どれだけの「強度」があるのだろう。忘れられていく感動に、はたしてなんの意味があったのだろう。私はわからない。それでも、わくわくすることを求めて生活している、ことを否定出来ない。

 戦国コレクションについて思い出しながら書いてみたい。

 

 戦国コレクションを観た理由。ツイッターで誰かが言及していたんだった。確か、@dot_aiaさんだったとおもう(.あいあさんが戦国コレクションに関するツイートをリツイートしたのだったかもしれない)。戦国コレクション3話『Pure Angel』が地上波で放送していたころだったとおもう。

 動画配信サイトではちょうど初回の1話と、少し遅れての(配信サイトでの)最新話2話が配信していて、それを順番に観たのだった、とおもうけれども、記憶が曖昧でひょっとして違うかもしれない。1話だけを観たのだったかもしれない。まあなんにせよ、少し遅れて、後から追う形で、私は戦国コレクションの視聴を始めたんだ。

 第1話『Sweet Little Devil』を観る。変なアニメだとおもった。というか、「面白くはない」とおもっていたはずだ。でも、気になった。それからのち、少しして2話『Peaceful Empress』を観た。やはり、変なアニメだとおもった。変なアニメ、それ以上の強い関心は抱かなかったとおもう。

 でも、そのころ私の好きな作品に、映画『ローマの休日』が、またテレビアニメ『THE IDOLM@STER』があって、そんな風な別角度からの印象は残った。それぞれ戦国コレクション1話、2話と、内容がゆるく関連していたりしていなかったりする。

 

 札幌の深夜テレビ、地上波で初めて観たのは4話『One-eyed Dragon』からだったとおもう。あの「スタイリッシュ成敗」の回。ますます、私は変なアニメだとおもった。

 アニメについて、自分の感想をうまく言語化する言葉を私は持っていない。だから、「変なアニメ」以外の言葉は出てこない。はじめそうだったし、4話を観たこのころもそうおもったし、そして現在も、戦国コレクションは「変なアニメ」だとおもっている。でも、その表現の意図は変わっている。

 「変なアニメ」という表現の中に、いまの私は度数のかなり高い「好意」を含ませて使っている。その違いをひとにうまく伝えることができない、伝えるための言葉を私は持たない。だから表現は「変なアニメ」のまま固定される。でも、違う。違いを伝えられるとはおもえないからこのことについてはもう繰り返さない。

 それから、配信で3話『Pure Angel』を観た。

 「変なアニメ」だとまたおもった。思いは確信犯的になっていった。

 

 テレビアニメを観るとき、興味関心が盛り上がっていくときと、盛り下がっていくときがある。最近は盛り下がっていくことの方が多くて、最終話までたどり着けるアニメが少ない。作品が悪いのではなく、飽きっぽい私が悪いだけ。

 なのだけれども、戦国コレクションは珍しく、後半に行けば行くほど関心が盛り上がっていくアニメだった。次の話が楽しみで仕方がない。そして、毎回「変なアニメ」だということを確信して終わる。同じことの繰り返しといえばそうなのかもしれない。私は毎週、戦国コレクションが「変なアニメ」であることを確認しようとしていただけなのかもしれない。

 だけれども、次の話をとても楽しみにする、私は確かに存在した。何が出てくるか分からない戦国コレクションに、謎の誘惑を感じていた。

 

 戦国コレクションへの興味関心が、「変なもの」への知的好奇心から、おそらくは尊敬に類する純度の高いものになったのは、まず第8話『Regent Girl』、そして何よりも第18話『Four Leaves』の影響である。

 画面を観て、信じられない思いがする。テレビアニメでこんなことが可能なのかと、私は驚かされた。テレビ画面から目が離せなくなった。中では輝いていた。何が? そこにあったのは優れた「構造」やよくできた「エンターテインメント」などではなくて、突出した「偶然」、溢れだしてしまった「混沌」なのではないか。

 本来制御・調整されるはずの塊が、そのままに流出してしまった事故。

 やはり、うまく表現することができない。

 けれども、確かに「輝き」を感じていたんだ。

 

 しかしおそらく、戦国コレクションは決して「特異的」なアニメではないとおもう。まず、個々の作品は「どこかで観たような」話を意図的に作っている(ときにあやふやに、ときに露骨なパロディとして)。プロの仕事だけれども、決してプロのなかでも特出した「歴史に残る」ほどの傑作が描かれているわけではないとおもう。そして全体の構成についても、私はテレビアニメには詳しくないけど、似たような作品がどこかにあるはずだ。

 毎回別用の作品を放出する正体不明のびっくり箱のような、そんな作品は、おそらくは他にもいくつかあるはずだろう。

 私が戦国コレクションに囚われたのは、他の作品を知らないからに違いない。

 

 だから、何がそんなにすごかったのだろう、いまいち、よく分からない。毎回毎回「変なもの」が出てくる、見世物小屋のような楽しみ方をしていたのかもしれないし、この説明が、もっとも人に伝わりやすいような気がする。決して戦国コレクションから深淵な思想を受け取っていたのではないはずだ。唯一無二の出会いをしていたのではないはずだ。所詮は娯楽、つまり、よくできた暇つぶし、なのだろう。

 しかし、本当にそう言い切ってしまっていいのだろうか。

 戦国コレクションは暇つぶしであり、テレビを前に私が過ごした時間は例えばもやしの根切りの時間とまるまる置き換えてしまって、私のその後の人生に全く影響を与えない。そう考えてみる。考えることはできる。しかし、はたして本当にそうなのだろうか。

 ……おそらく、そうなのだろう。

 私はやがて戦国コレクションを見たことを忘れるし、このブログを書いていたことも忘れてしまうに違いない。そういえば、中学生のころ、日記を書いて、一ヶ月ほどでやめたことがあった。すべては忘れられていく。そして、何も影響を残さない。

 そういうことなのだろう。

 そうだろう。

 

 ……でも。

 書くことは何も思い浮かんでいないのに、でも、「でも」とここに書き足してしまう自分がいて、その理由が私にはよくわからない。あの時間は、ただの暇つぶしだったのだろうか、と書いて、そうだ、の一言で文章を終わらせることができない。

 例えば。ひょっとして、ただの暇つぶしではない時間であったということに、これからすることができるのかもしれない。私の生活によって、努力によって。わからないし、そうするべきかも知らない。でも考えている。いや、考えてしまっている。戦国コレクションとはなんだったのか、そして、これからはどうなるのか。私は考えている。これもまた、戦国コレクションを観てしまった影響だろう。

 何を書きたいのか分からない、でも、書かなければいけないような気がする。いつか忘れてしまわないように。いつでも思い出せるように。

 

 戦国世界をはじき出されて、現代という別の世界にやってきた武将たち(歴史人物たち)。そして始まるそれぞれの生活。歴史上の人物と同じ名前で、どこかの作品のパロディ的な世界を生きること。そこには普遍流通する記号のみがあり、唯一無二の独自性がない。

 もし、これが私たちの本当の姿であるならば。

 「私は何になるべきか」ではなく、「私独自の生き方」などは考えず、そして、私としてすら生きないということ。真なる独自性、実存、そういった虚像に惑わされず、そこにある記号としてのみ生きるということ。固有名詞によって「位置」だけを固定されて、あとは何も持たないものたち。あること、そしてそれに徹すること。私たちはそもそも、こういった生命体だったのではないか。膜によって外界から区切られた、たったひとつ存在する有機体。代替可能な点。そこから、すべては始まるのではないか。

 知識によって捏造されてしまった私たちの社会の「あるべき生き方」を、つまりは私たちの社会的価値を、実存を、自己実現という名前の神話を、ラディカルに否定するキャラクターたち。そんなアニメーション。

 ……知らないけど。

 そんなことを例えば考えてみて、やはり、決定的に違うだろう。もっと別のことがどこかにある気がして、私にはよくわからないけど。

 

 また、戦国コレクションを観たいとおもう。今はそれだけ。