つぶれるように向日葵が枯れて

「時間のかかる短歌入門」を書くためにものを書くための練習をする。さいきんはなんだかすべてを忘れてしまっているような感じがある。 たいせつなことがおもいだせない。知識はつかわないとねむってしまって動き出せない。準備体操が必要だ。

 「現代短歌」のさいしん3月号に「〈流動体〉について」という散文か掲載になっています。いままでに書いたもののなかでもぜんぜんうまく書けたという手応えのない文章で、どうなることやら、というおもいがある。到達点から語り下ろすようなものの書き方がある一方で、今回のそれは、まだ、自分がいる景色をみることができず、どこにいくかもわからないまま、岩肌を登りながら書いているような感じがある。転落の過程をひとに見せているのかもしれない。読者=視聴者という外の視点から俯瞰すれば、ピッケルの穿ちわすれが容易にみえるが、登っている自分には気づけない、ということがおうおうにしてある。落下してはじめて気づく間違いというものがある。

 それでも。そのような「俯瞰」の視点にインターネットを利用しているときのみんなはあこがれているけれど、そんな視点はじつは存在しない、あなたはすでにここに巻き込まれている、ともおもう。すごいことなんてない、退屈なことしか起こらない、と20年くらい前のテレビアニメはさんざん述べていたけれど、そのようにして「いま」へのコミットメントを断念しようとした結果が、いま・ここの現在であり、これから起こることなのだ、ともおもう。

 小田島了さんの新作短歌が「うたとポルスカ」で公開されました。

utatopolska.com

 小田島さんの短歌はよく濡れている歌が多くて、それがときに冷たいこともあれば、まったくさわった感触もない、というようなこともあるのだけれど、温かいということは決してない、とおもう。それが実際の水にさわるよりも、なおいっそう、たのしくて、おそろしい。というのが、小田島さんの短歌の他に類をみない美質のように、掲載作を読んでおもう。まったくの新素材。

 というように、わたしたちは短歌に対する感想を「水のよう」とかなんとか、比喩で済ませてしまうことが、多々ある。ポエムにたいしてポエムで対抗するようなこのような感想文は、結局のところ現象の複雑さを倍増させているだけで、なんの説明にもなってはいない。のだけれども、多くの読者はそれで満足し、なにかを得たように考える。詩歌に対する感想文の読者は、たいていは詩歌の読者であり、ポエムへの感受性が高い。ポエムを読むようにして感想文も評価する、ということか少なからずある。だから批評者にだいいちにもとめられるのは、説明能力の高さ以前に、ポエムの読者を満足させるにたるポエム力なのだ、という現実がある。穂村さんをその代表者として、平岡さんとか、柳本さんとか、おもしろい感想文を書くひとにはたいていこのような感想文そのものをポエムとして駆動するポエム・エンジンが搭載されている。

 ただ、だから説明力はいらないのだとはならない。ポエム・エンジンに甘えてしまうと見えなってゆく対象がある。あるときふいに学術の言葉の使い手が、そのようなポエムをよせつけない対象をきれいにとりだして、見せてくれるということもある。

 詩歌の心臓かもしれないが、脾臓かもしれないし、胆嚢かもしれない。

 

内側につぶれるように向日葵が枯れてしずかに苦を抜けていた

小田島了「水のほつれ」