相撲部部室に土俵はあるか

 なんの脈絡もないといえばないのだけれども,「過去」と「現在」のことを考えている。そういう感じの文章がふたつちかぢか総合誌と同人誌に載ります。

 

 いまやわたしたちは価値の多元性のなかを生きていて,たとえば人の死を好むひとがいても,そのひとがひとに危害を加えない限りにおいては,そのような趣味嗜好があるということ自体は決して否定することができないし,またしてはいけないとおもう。たとえば野蛮な文化があっても,それをどこまで「人権」の旗印のもとで矯正していいかというと,むずかしい。「平和主義」や「基本的人権の尊重」といった価値観は普遍的であるべきだとわたしたちの多くはおもうけれども,いっぽうで,わたしたちはその普遍的な価値観をみたす限りにおいて価値観の多様性へとひらかれてもいる。

 

 普遍性と,多様性

 

「平和主義」や「基本的人権の尊重」が普遍的な価値観のひとつとして立ち上げられる前はしかし,むしろ,価値観の多様性というのはまだ視野に入っていなかったのだとおもう。「古い誤った価値観」をとにかく排除していくことこそが重要であったのだろう。たとえばそれは「基本的人権」を迫害する種々の差別で,そこにおいてわたしたちは,憎むべきものとして「過去」の「因習」にたちむかっていた。

 ごくごくざっくりといえば儒教道徳のような価値観が普遍的なものとしてかつてあって,そこにおいてはその普遍性を満たすかたちで価値観の多様性が保たれていて,しかし普遍的な価値観が「儒教道徳など」から「平和主義」や「基本的人権の尊重」のような別のものにきりかわると,旧来の価値観で合法とされたものはあたらしい普遍的な価値観を満たさなくなり,まずはそれらが修正されることになり,やがて修正があるていどいきとどくとふたたび価値観の多様性が満たされるようになってくる,という流れを実際の歴史がたどったのかどうかは勉強不足なのでわからない。

 少なくともかつて否定されるべきものとして「過去」の一部の風習はあったし,いまもまたそれらの多くは否定されるべきものとして考えられている。

 価値観の多様性は価値観のアナーキズムではない。

 

「過去」を否定することによってかつてひとびとはその反作用により現在を駆動していった。*1しかし否定されるべき「過去」の存在感がうすまってゆくと反作用はうまく機能しなくなる。また価値観の多様性が,やがてアナーキズムのように捉えられていってしまえば,やはりそのような反作用はあまりうまく機能しなくなってゆく。「過去」への回帰がおこる。

 

「過去」を否定したひとびと,たとえば旧派和歌を否定した正岡子規であったり,俗流アララギ的なものに反発した塚本邦雄であったり,あるいは文語短歌に対する口語短歌であったりは,「過去」にどっぷりとつかった上の世代のひとびとの説得に成功したがゆえに一大勢力を築いたわけではないのだとおもう。そうではなく,「過去」とは異なる新しい価値観を築いた上で,それを自分よりも下の世代にうまく布教することに成功したがゆえに,おおきな勢力となったのではないか。

「過去」の否定によって生じる力は「過去」を変える力ではなく,「過去」とは異なるものを創発する力である,ともいえるかもしれない。

 たとえば穂村弘をみていても布教がとてもうまいとおもう。自分の価値観を「短歌ください」や「ぼくの短歌ノート」などで提示して,それに引かれるひとを,つぎつぎと自分の影響圏においていく(といって結社の師弟制度のように制度的に囲い込むわけではなくて,ただ「おもしろい」という,魅力=Attractive Force=引力によって惹きつける)。

 穂村弘の影響を「時代の風」としてうけた2000年代に学生短歌界隈にいた若い歌人,永井祐,石川美南,堂園昌彦なども,このようなかぎかっこつきの「布教」に,たぶん意識してはいないとおもうけれどとても意欲的なように,彼女たち(彼ら)に「布教」される下の世代の人間としてみていると感じる。べつに特別になにをされているというわけでもあまりないのだけれども。種々の同人誌で活躍していた彼ら(彼女たち)は,下の世代に及ぼす影響力がつよい。先に活躍している彼女たち(彼ら)はあまりにも魅力的にみえ,見上げているうちにひきこまれている。逆に言えば,下の世代に及ぼす影響力がつよいひとほど活躍しているとみなされるような気がする。

 学生短歌会の後輩(その最右翼として「町」や「率」の歌人)やその周辺のひとびとをどんどんと引きつけて,ひとを集めて,環境を変えていく,という引力・環境改変力をおもう。あるいは「学生短歌会」という場はこのような引力が結社以上に発生しやすい場のようにおもう。

 しかし学生短歌会の先輩たちは,正岡子規塚本邦雄のように新しい価値観やあたらしいパラダイムを提示して,その価値観がゆえにひとをひきつけているわけではなく,ただ先輩であるがゆえにひとをひきつけているだけなのかもしれない。後輩はよく見分けないといけない。一緒に注意していきましょう。

 

 んで,わたしよりも若いひとがどんどん増えてくるのだけれども,上の世代ばかり見ているとそんなかんじで引力圏にひきこまれてしまうので(なにしろ上の世代はすごく魅力的なのだ),ほかにも古今東西のできるだけいろんな引力をうけて,ラグランジュ・ポイントにただようように,バランスよく,引力がつりあった無重力状態をなせるようにするとか,あるいは逆に彼ら(彼女たち)の作戦を利用して自分よりも下の世代にいまのうちにめをつけておくといいのかもしれないとおもいました。

 

 以上。

*1:若いころの山田航氏の文章はかなりこの「過去の否定」を志していて,『桜前線開架宣言』ではそのようなとがった感じは弱められているのだけれども,でもその余波はやはり感じられる,というどうでもいい余談。