読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ふと地球上すべてに閉じ込められる

 以前「誰にもわからない短歌入門」に書いたことなのだけれども,小説と違って,短歌では「登場人物」と「語り手」の違いが意識されることが少ない。

 三人称で書かれた小説を考えると,読者はそこに「登場人物」とは別の「語り手」の存在をどうしても読み取る。「語り手」は「作者」の分身かもしれないし,あるいは「作者」とは無関係で,作中に仮に作られた「神の視点」かもしれない。三人称で書かれた小説ならば,「作者」はまず「語り手」を喋らせ,それによって「登場人物」を操作することになる。また一人称で書かれたフィクションならば「登場人物」と「語り手」は一致するだろうし,一人称のノンフィクションならば「登場人物」と「語り手」と「作者」は基本的にはすべてイコールで結ばれることになる。
 しかし短歌を読む際にはあまり「語り手」が意識されることはない。短歌をしているひとはよく,小説における主人公のようなものを「作中主体」と呼ぶ。多くのひとはたぶん「歌人」が直接「作中主体」を操作していると考えているとおもう。実際には短歌においても視点としての「語り手」(歌い手)のようなものがあり,「作者」(歌人)はまず「歌い手」を生み出して,それから「作中主体」を動かしているはずなのだけれども。

ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも
 斎藤茂吉『あらたま』

 この歌には「夕方になって大根の葉に時雨が降っている」という景色があり,それを見ている「作中主体」がいる。そしてそれを歌にした「歌い手」がいる。「歌い手」というのは小説における「語り手」と同じように,目の前のテクストから読者が受けとる想像上の人物像であり,実際にこの歌を作った「作者」「歌人」とは関係がない。*1

 なのだけれども,わたしたちはこれまでそのようには考えてこなかったようである。つまりわたしたちはこれまで「歌い手」と「歌人」を同一視してきたようにおもう。多くのひとはこの歌について,「作中主体」=「歌い手」=「歌人」=斎藤茂吉であると考えてきた。また,この歌の「作中主体」は「歌人」と直結している,とは読まない注意深い読者であっても,「歌人」である斎藤茂吉が「作中主体」について歌っている,というふうに考えて,斎藤茂吉がまずこのような歌を読むであろう「歌い手」という場を作成し,その上でその「歌い手」の場から「作中主体」を動かしている,とは考えてこなかったようである。*2
 このようにして,小説でいう「語り手」の位相,テクストの構造上どうしても要請されるテクスト内部のとある空間に,「歌人」という外部の存在が挿入されることになる。その結果短歌は「私性の文学」になってきたのではないかと考えている。

 

ゆるいゆるい家路の坂の頂上でふと地球上すべてが見える
 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

「作中主体」というか,「歌い手」というか,の眼がすごくなってしまった歌である。この歌は一人称視点の歌だろうか,それとも三人称視点の歌だろうか。
 この歌が一人称で書かれているとすると,わたしがゆるいゆるい家路の坂を登って,やっと頂上についた,ふう,と一息をついた瞬間に地球上すべてが見えたような気になった,というような歌になるとおもう。上句の描写はだから静的な情景描写ではなく,動的な時間経過を表現していることになる。
 一方でこの歌は三人称で書かれていて,わたしは「神の視点」に近い存在で,この歌の上句は静的な情景であると捉えることもできるかもしれない。「ゆるいゆるい家路の坂」もその「頂上」も「地球上すべて」も視点人物によって一望されているのかもしれない。「ゆるいゆるい家路の坂の頂上にいま人がいて,そのひとはいまふと地球上すべてが見えると考えている」。そのひとが三人称である「神の視点」の側にちょっと溶けてきちゃったから,「神の視点」を部分的に共有してしまって,地球上すべてが見えてしまったのである,と考えるのもおもしろい。

 でも,やっぱりこの後者の解釈には無理があるだろう。三人称ならば「ゆるいゆるい家路の坂の頂上で地球上すべてが見えている」とか,もうすこし突き放した表現になるだろうから,「ふと地球上すべてが見える」はやはり一人称の視点からの描写におもう。
 なのでこの歌はやはり一人称視点の歌だとおもう。そしてそのような「作中主体」=「歌い手」として見えてくる像は,なんというか,永井さん本人には会ったことがないけれど,やはり「歌人」である永井祐っぽい感じがする。あるいはそうなるように永井さんが散文などで「歌い手」の場をつくりだしている,というか。
 永井さんの歌はどれを読んでも,基本的には,見えてくる「歌い手」の像が似ているとおもう。なので連作や歌集で読むとそこにひとりのひとがいることがわかって,多くの歌がひとつの場所に集まってくるようで,なんというか安心する。

カードキー忘れて水を買いに出て僕は世界に閉じ込められる
 木下龍也『つむじ風、ここにあります』

 先に引用した永井さんの歌と同じく,「作中主体」の人物がいて,その人物が「世界全体」という三人称視点でなければ見れないものについて考えをめぐらせている歌である。この歌は一人称視点だろうか,それとも三人称視点だろうか。

 先の歌の「ふと地球上すべてが見える」に比べると「僕は世界に閉じ込められる」は現実的というか,不可能なことを想像しているわけではない。引きこもっているひとが「引きこもっているのではなくこの部屋の外に世界を閉じ込めているのだ」と述べるいうのはどこかで聞いたことのある話だし,別段突拍子のないことが書かれているわけではないのだとおもう。なのだけれども,一人称というには,視点の位置が不思議である。

 カードキーを忘れて水を買いに行きました,外に閉じ込められました,というまさにその渦中にいる,焦っているであろう状態のひとがこういうことを朗々と「歌い出す」というのはあまりうまく想像ができない(ミュージカルとか,演劇ならばありえる)。一人称視点だとすると,この歌が歌われているのが「いつ」なのかがよくわからなくなるのだ。このひとが水を買いに出て,外のほうへ閉じ込められた瞬間,というのはこのひとはまだそのことに気がついていないのだから歌えるはずがない。水を買いに出てからカードキーを忘れていたことに気づいて,あ,しまった,閉じ込められたぞ,とおもった瞬間にこういうことを「歌い出す」というのも,先に述べたようになんだか変である。現実的な状況を考えると,「あ,しまった,閉じ込められたぞ」とおもったと同時に「しめしめ,これは歌になるぞ」とひらめきを得て,それからなんとかして部屋の鍵を開けてもらって部屋にもどって,やれやれ,とおもってベッドに座り,それから当時のことを振り返ってパソコンに向かってこの歌を打ち込んだ,というのがこの歌の「いつ」であるとすればわかる。*3
 となるとこの歌は「僕」の一人称ではなくて,過去の自分という他人=「僕」=「作中主体」がいて,それを俯瞰しているいまの「歌い手」がいて,その視点から描かれているのではないか,と考えたほうがしっくりするようにおもう。さらにまた,「カードキー忘れて水を買いに出て僕は世界に閉じ込められた」と過去形だったら上記の解釈のように「僕」を「歌い手」と別時間の同一人物として考えてよいのだけれども,「閉じ込められる」と現在形で書かれることによって,視点人物である「歌い手」と「作中主体」である「僕」は,微妙に乖離することになる。この歌には「僕」と「歌い手」というふたりの人物が描かれている,といってもいいかもしれない。

 なので「僕」という自称にはほとんど意味が無く,いくらでも代替が可能である。だからたとえば,「カードキー忘れて水を買いに出てきみは世界に閉じ込められる」でも,「カードキー忘れて水を買いに出てジョンは世界に閉じ込められる」でも,歌の構造的な良さにはほとんど影響が出てこない。

 

 木下さんの歌は普通の歌人に比較して,「作中主体」を突き放して俯瞰した,三人称視点で描かれているように印象を受ける歌が多いと感じる。永井さんの歌については「見えてくる「歌い手」の像が似ている」と書いたけれども,木下さんの歌については,少なくとも『つむじ風、ここにあります』については,だから,わたしはあまり「歌い手」の像について印象を抱かなかった。

 一首単位での印象はとても強いのに,連作全体,歌集全体となると,印象がまとまらず逆にぼやけてくるような,そんな歌集が『つむじ風、ここにあります』だった*4。それはひょっとしたら,木下さんの歌が,一首ごとにそれぞれ(かっこいい)(とぼけた)(愛らしい)(おそろしい)「歌い手」を制作しているがために,全体としての「歌い手」の像を読者に結ばせないからなのかもしれない。


 最後に適当なことを書くと,一人称が使われているけれどもほとんど三人称視点の描写になっていて,「歌い手」が「作中主体」を凝視したような構造になっている,という歌がこんごはますます増えてくるのかもしれないとおもう。液晶という「窓」をつうじてインターネットをぼんやりとながめるとき,わたしは登場人物というよりも,登場人物としてのわたしの言動をあやつる「神の視点」にいるような気がする。三人称視点のほうがより実感にあうという世代は,今後ますます増えるとおもう。みんな「窓」の向こう側にいて,こちら側にはだれもいなくなってしまう,ということも「誰にもわからない短歌入門」に書いたつもりなのだけれども。
 終わり。

      あす

まりあまりあ明日あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ

 加藤治郎『昏睡のパラダイス』 

 

*1: 岡井隆がいう「像」というのはこの「歌い手」の像のことだとおもっている。

*2:これは短歌が小説に比べてとても短いこと,また定型を持つ「歌」であること,などに起因するのかもしれないけれどよくわからない

*3:実際の製作の経緯がどうだったとかそういう話ではなく

*4:だれかががどこかで歌人を「一首屹立型」と「連作・歌集型」にわけて木下さんを前者に区分していたような気がする