『関係について』について その1

 生沼義朗さんから歌集『関係について』をご恵贈いただいた。経緯は以下。

 なので何か文章を、軽めのエッセイのような文章を書こうとおもう。

 

 生沼さんにわたしがはじめて会ったのは第一回新宿職安通り大学短歌会という、鈴木ちはね氏がわたしのために開いてくれただれでも参加できる形式の歌会で、そこで生沼さんの歌にわたしが票をいれたことを憶えている。それ以前には第一歌集『水は襤褸に』を帯広市の図書館で読んでいた。当時読みながらとったノートにはたとえばつぎのような(理知的で概念的な)歌がメモされている。

〈了〉という印をはやく打ってくれ、自死などというかたちではなく

しくしくと明日が痛みぬ。概念や解釈にまみれ生きているから

胃袋をウイスキーにて満たしたれば水禽のにおいわが裡に満つ 

ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ

 生沼義朗(2002)『水は襤褸に』ながらみ書房.

 つぎに生沼さんにお会いしたのは昨年の短歌研究三賞の授賞式のときで、都下のてきとうな居酒屋でひらかれた三次会では生沼さんと中島裕介さんが話すのを、わたしと、新人賞の遠野さんと、あとそのほか数人で囲んで話を聞いていた、のだったとおもうけれどもちがうかもしれない。ほとんどが男性のあつまりであったとおもう。

 ので、というわけではないのだけれども、男性性のことを考えている。

 

 男性性、あるいは「男性らしさ」というものは、ないといえばないし、あるといえばある。いや、やはりないのだとおもう。しかし男性性という機能はいまはまだ実在のものとしてわたしたちの社会ではふるまって(しまって)いる。 

「男性らしさ」が男性たちに本質として内在するからわたしたちはそれについておもうことができる、というよりは、わたしたちがそれについておもうから「男性らしさ」というものがあたかも実在するかのように機能してしまっている、と考えておいたほうがいいような気がするのだけれども、だからそれについて考えるということはそれを補強するということでもあり、男性性のことなんてみんな忘れてしまえばいいのかもしれない、そうすれば100年後にはだれもおもいだせなくなるのかもしれない、とおもう、というか考えている。でも『関係について』を読みながら、そこにわたしはむせかえるような男性性を感じて(しまって)いた。男性性についてだからかんがえようとおもう。

 でも、『関係について』は決して男性主義的な歌集ではない。

 

 人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、――それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。*1

 

 なに言っているのかぜんぜんわかんないなとおもって読むのをやめてしまった本が読んだことのある本よりもたぶん多くあって、そのうちのひとつが『死に至る病』なのだけれども、自我(ego)に対して自己(self)には「他者の他者」という側面があるとかつてべつの本で読んだことがあって、引用部はそういうことを言っている文章なのかなあと考えている。だから生沼さんの歌集の『関係について』というタイトルは、「自己について」と読み替えることもできるのかもしれない。

『関係について』は多くのものを描く歌集である。そして多くの「もの」をつうじて得た自己を描く歌集でもある。たとえば『関係について』には電車で長野や富山にむかう際のみちゆきを描いた「信州行」「北流まで」という連作や、ある裁判の傍聴経験に着想を得たらしい「東京地裁四一二号法廷」など、テーマ性・物語性の強い連作がいくつか収録されている。一方でそういったテーマや物語をもたない、日常、生活を描いた歌がおおく収録されていることも『関係について』の特色である。たとえば次に例示するように、食事や飲食物の歌がおおい。

まっしろな牛乳パックに牛乳は満たされており 苦しからずや*2

日常が肥大している。食卓にトマトソースを吸い過ぎのパスタが*3

シーチキンをホワイトソースに入れたれば素性分からぬ食感となる*4

爪楊枝嚙めば嚙むほど木の味がしみだしており木であるゆえに*5

食べてさえいれば死なない、コンビニの商品多くは食い物であり*6

カロリーは偉大なりけりとりあえず食えば少しは淋しさの減る*7

 おおくのものを描くこと。それはどうしても「もの」と自分の関係を描くことであり、つまりはものを描くと同時にそれをみている「自己」を描くことでもある。だから『関係について』にはおおくの「自己」がある。ただしそれは「自我」ではなく、「もの」との関係を通じて、「もの」の側から照射された「自己」である。

「食べる」という行為はとくに「自己」の描写を補完してゆく。食べるということは他なるものを自己にとりこむことであり、食べることを通じてわたしたちは、他なるものにより絶えず自己を補強しつづけている。食べることによって日常や生活は保たれる。引用は省くけれど、『関係について』にはまた「日常」や「生活」といった言葉を直接詠んだ歌もおおい。

  そういえば『死に至る病』とおなじくぜんぜんわからなかった本に『全体性と無限』という本があって、そこでは「食べる」ということについてこんなことが書かれていた。

食べるという活動はとりわけてものにかぶりつくということを含んでいるのだけれども、表象されるにすぎないようないっさいの実在に対して、栄養物となるこの実在の有する剰余が、そのことによってこそ測られる。それは量的な剰余なのではなく、〈私〉という絶対的なはじまりが、〈私ではないもの〉に宙づりにされているしかたなのである。(中略)欲求の充足にあってたしかに、私を基礎づける世界の異邦性はその他性を失うことになる。つまり満腹することで、私が喰らいついていた実在的なものは同化され、他なるもののうちにあった諸力は私の諸力となり、私となる(だから欲求の充足はすべてなんらかの点で、それ自体として糧となるのである)。さらに労働と所有によって、糧の他性もまた〈同〉のうちに組みいれられる。ここで問題となっている関係は、だがどこまでいっても、表象が有する、さきに語った意味での創発性とは根底的にことなっている。ここでは関係が反転しているのだ。(中略)私が生きている世界は、思考と、構成するその自由とに対して、たんに向かいあうものではなく、それとたんに同時的なものなのでもない。世界は思考と自由を条件づけ、それに先行する。私が構成する世界が私を養い、私を浸している。*8

 

 ところで自己をえがくといえば斎藤茂吉の『実相に観入して自然、自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。』という言葉がおもいだされる。観入すること、つまり「見ること」が写生の基本的な方法だった。言い換えれば、「見ること」をつうじて自然と自己を関係させることが写生の方法だったのだとおもう。「食べること」もまた自然と自己とを関係させる行為である。また「食べること」について『全体性と無限』ではこんなことも書かれていた。

 私たちがそれによって生き、それを享受するものは、そのような生それ自体とは混同されない。私はパンを食べ、音楽を聴き、じぶんの考えの流れをたどる。私がじぶんの生を生きているとしても、私が生きている生と、その生を生きるという事実そのものは、それでもなおべつのことがらである。(中略)生がその内容に関係するしかたである享受は、志向性のひとつの形式なのではないだろうか。その語のフッサール的な意味でとらえられ、人間存在の普遍的な事実としてかなりひろい意味で受けとられた志向性の一形式なのではないか。*9

「食べること」も「見ること」もともに志向することであり、関係することである。あるいはだから、「食べること」も「見ること」もひとしく「観入すること」であると言っていいのかもしれない。そしてだからそれは「写生」へと通じるのだろう。

 

「写生」の話がでたので、すこし話をそらして、短歌をつくるとはどういうことかについて考える。

 わたしたちは短歌をつくることを「詠む」という。「詠む」は「読む」と同じ音を持つけれど、「詠む」と「読む」の語源にはともに数を数えるという行為があったという。readの語源もまた、さかのぼると「計算する」とか「推論する」という意味にたどりつくという。文字が生まれるまえですら、わたしたちは数を数えることですでに世界を「よんで」いたらしい。「読む」とは、いまあなたがこの文章を読んでいるように目の前の文字情報を解釈するということのみならず、もっとひろく目の前のことを「考える」ことであったのかもしれない。

 このとき、わたしたちは「目の前」というものを前提にしている。つまりここでは「目が見える」ことが前提されている。点字を読む場合でも、わたしたちは目の前のものに意識をむかわせていることに変わりはない。つまりわたしたちは「よむ」さいに目の前のものを志向している。「よむ」は前提として、「よむ」対象となるものが志向可能なものであることを必要とする。だから写生は短歌と相性がよいのかもしれない。「よむ」ために観入することが必要なのである。

 一方で、短歌は歌であり、わたしたちは短歌を「詠う」こともできる。「歌」の語源は「うたた」という言葉にいまものこる、ある種の「トランス状態=うた状態」だったのではないか、と国文学者の藤井貞和はのべていた。だとしたら、目が見えなくても、意識がなくてもわたしたちはうたうことができるはずだ。世界にもしわたし以外なにもなかったらわたしたちは世界を「よむ」ことはできないが、しかしわたしたちはそれでも「うたう」ことができる。志向性がなくても歌はうたえる(しかしあるいはそうではなく、自我が自我にどこまでも観入することが「うたう」ことなのかという気もする)。

 

 短歌をつくるにはどうもふたつの方法があるのではないか。

 ひとつは主体の志向性にもとづき、目の前のものを「よむ」という方法である。このとき志向性は多くの場合、「写生」に代表される「見ること」として発露する。また「よむ」ことはときには「心を読む」「先を読む」という言葉であらわされるような、目には見えない者に対する、理性によるはたらきかけでもあるだろう。

 一方に「うたう」という方法がある。たとえば古代のシャーマンが、巫女がその呪術の場においてうたったように。ここにあるのは理性のはたらきよりもむしろ情動のはたらきなのではないか。

 そしてこのような二分法を採用したとき、わたしたちの多くはなぜか前者に、おかしなことに、男性性をつよく感じてしまう。『関係について』は前者の「よむこと」に大きく比重を置いている歌集にわたしはおもう。そしてだから男性性をつよく『関係について』にわたしは覚えたのではないか、ともおもう。

冷やし中華の酢にむせる日は理と情のバランスはつか崩れておりぬ*10

情報の情とは何ぞ 水に落ちし犬いっせいに撲られており*11

 

 ところで以前黒瀬珂瀾歌集『蓮喰ひ人の日記』についてTwitterにこんな投稿をしたことがある。

 「情報」というのは不思議な言葉で、それはたぶん字義通りには「情けを報じる」と書き下すことができるのだけれども、いっぽうでわたしたちの多くはたとえば「情報化社会」というと機械的・理性的な社会という印象を受ける。このギャップはとても興味深いとおもう。「情」は報道によって「情報」という理性的なものに変化するのかもしれない。それで、わたしたちは普段多くの情報を目にする=読む。世界を情報として目にするとき、わたしたちは世界をその外部から監視している(ような錯覚を得る)。このとき、全展望監視システムのように、見るということは権力となる。またわたしたち一般市民の「情動」は、情報として報じられたとき、報道の暴力的なちからによって権力の前へさらされる。

 このように「読む」ことは権力である。一方で、報道されひろく読まれることが権力となる場合もある。たとえば権力者は報道によって自らの権力をひろく誇示するし、テレビやYoutubeにうつるアイドルたちは、歌を「うた」って、自らが情報として拡散されてゆくことで多くの信者を獲得してゆく。

 このようにして、「よむこと」も「うたうこと」もともに権力の行為となる。「よむこと」の権力は男性の権力であり「うたうこと」の権力は女性の権力である、と断言することはたとえ比喩的なつかいかたであっても間違っているのだけれども、でもこのような言説にいまの社会はまだ説得力をもたせてしまうかもしれない、ともおもう。

 黒瀬珂瀾氏は生沼さんと同世代の、吉田隼人氏は生沼さんより下の世代の歌人であり、そのそれぞれに「読む」ことに優れた能力をもっているひとである。そしてふたりの歌集にわたしは、それぞれ独自の在り方の、やはり男性性をおぼえる。黒瀬珂瀾―生沼義朗―吉田隼人、という一連の歌人たちの営為は、このように「読むこと」と「情報」と「権力」と「見ること」をめぐる問題圏にひきつけて読むことができるのかもしれない、とおもう。

 

 

『関係について』を書くはずが余談がおおくなってしまって歌にはほとんどふれられなかったので、今回の記事はその1として、学振の書類がちゃんと書けたら4月中にはその2としてもうすこしちゃんとした読みを書きたいなとおもいます。

 

関係について

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水は襤褸に―生沼義朗歌集

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死に至る病 (岩波文庫)

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全体性と無限 (上) (岩波文庫)

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蓮喰ひ人の日記

蓮喰ひ人の日記

 

 

空庭

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忘却のための試論 Un essai pour l'oubli (現代歌人シリーズ9)

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*1:キェルケゴール著,斎藤信治訳(1939一刷:2010改版)『死に至る病岩波文庫,p.22.

*2:「クララは歩く」『関係について』p.11

*3:「誇りと平和」同p.19

*4:「竹に花」同p.69

*5:「何川」同p.130

*6:「関門」同p.158

*7:「物語」同p.190

*8:レヴィナス著,熊野純彦訳(2005)『全体性と無限(上)』岩波文庫,p.253-254.(原文傍点部に下線を付した)

*9:『全体性と無限(上)』岩波文庫,p.237-238.

*10:「塩にまで小蝿」『関係について』p.24

*11:「何川」同p.131(詞書:ライブドア事件報道)