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不安

 日記を書く。不安である。『詩客』に柳澤美晴さんが短歌時評を書いていて『短歌時評第109回男子VS女子』という記事なのだがそこで三上春海が言及されている。三上春海はわたしのことだ。

 12月19日の早朝、NHK札幌放送局が『おはよう北海道』の中でSNSを中心とした短歌ブームおよび北海道大学短歌会についての紹介を行い、わたしは北海道大学短歌会の会長であるから、その取材に忙しい日々を過ごした。その中でわたしはカミハルでも三上春海でもない本名で扱われた。映像として報道された。映像のなかに〈わたし〉がいた。それは誰だったのだろう。

 わたしは誰なのだろうとおもう。

 

 透明度 私のいない湖を見つめ続ける私の瞳

 

 という短歌を以前に詠んだことがあって、鈴木ちはねさんにはこの歌が高く評価されている。私がいないこと。わたしは、「私がいないこと」をモチーフとしてたびたび用いる。わたしの不在を好む。そう、わたしは〈悪〉であり、わたしがいないことは〈善〉であるという考えをよくわたしは用いる。でもわたしはいるのだ。映像のなかでわたしは三上春海ではない誰かとして、身体を持ち、発言をしていた。そこにいるものがわたしだった。

 時評の中で柳澤美晴さんが三上春海さんの文章について次のように言及する。

 

『でも、たかだか好きなものを語るのに、こんなに綿密な理論立てをしなければいけないのかという疑問がよぎったのは、わたしが女だからだろうか。殊に、冒頭からレヴィナスの文章を引用して、素晴らしい書物の代表として聖書をあげ、自分には語る資格がない(でも語りたい、語らせてください)と延々と事由を求める三上を見ると、世間の目を気にして言い訳を必要とする男の悲しい性を感じてしまった。社会的な裏づけがないと不安なのだ。』

 

 不安なのだ。それはほんとうにそうだ。「世間の目を気にして」と言われればそんな気もするが、でも、それにとどまらない不安をわたしが所有していることに気づく。「社会的な裏づけ」にとどまらない、地盤のなさへの不安がわたしにはある。「震災」という言葉で指されるものが新潟県中越地震ではなくなって久しい。13歳のわたしは、その震えのなかに揺れていた。震災はすでに忘却されかけている。でも、わたしの地盤はまだ揺れているのだ。

 「わたしがいる」ということを確かな地盤としてものごと始められれば、わたしの「好き」を語ることができるけれども、わたしにとってはわたしがいない。もちろん「わたしがいない」は嘘で、わたしはテレビに映されればわたしとしてただそこにある。でもわたしにとってはいないのだ。おかしくて狂ってしまいそうだ。ほかの誰かにとってわたしはただひとりのわたしでしかないのに、わたしは、出発点としてわたしをうまく据付けられない。

 〈聖書〉についてわたしが書くのはわたしが、震えのない基盤を求めているからだとおもう。わたしの不在をどうにかしてほしいからだとおもう。あるいはわたしは科学の、それも大地にかかわる科学の勉強をしていて、大地とはもちろん基盤のことである。わたしはわたしの基盤を求めている。「世間の目」「社会的な裏づけ」どころか、もっとゆるがない徹底的な基盤を求めていることに気付く。(もちろんわたしはわたしの基盤の不在ゆえに世間の目も気にしていて、だからわたしは他人からの評価をとても気にする、卑小な魂を持っている)

 

 堂園昌彦さんの歌集『やがて秋茄子に到る』および五島諭さんの歌集『緑の祠』を読んだ。絶対に譲れない自分の基準、つまりは美意識をもとに書くということがそこには発揮されていて、わたしにはそれは無理だとおもう。だってわたしには美意識がない。基盤がない。もしなにかをなそうとするばらば現在、「どれだけはっきりとした美意識を提供できるか」が重要であるとおもうのだが、どうだろう。不安なのだ。みんななにか、はっきりしたものを欲しがっているのだ。

 でもわたしにはそれがない。

 美意識を持たないわたしはなんでも書こうとするし、でもわたしにはなんでもをなそうとするための技量や蓄積をもたないから、なんでもを書くことはできない。器用貧乏にさまざまを書くばかりでとても貧しい。だからわたしは、「個性」を発揮することがない。

 という話をしたのは、「わたしがなにを書くべきか」が、わたしにはまたわからなくなっているからだ。もちろん「べき」によって自身を統御しようとするのは間違いで、自然に自然に、流れるものをそのままになせばよいというのがわたしの理想ではある。しかしそれでは、煩雑な下級品ばかりが生まれてしまう。わたしと同世代の書き手で、たしかな基盤を持っている人たちはそれぞれに道を見出してゆく。それを羨ましくおもう。わたしは基盤がほしい、美意識がほしい。自分の基盤をまず据付けてから、流出を開始するべきなのだとおもう。設計図なく思想なく部品を送り出す工場がわたしで、それはガラクタ工場と変わらない。

 でも、わたしは自分の美意識を見つけ出せないような気がする。わたしの世界はまだ揺れている。だからわたしは自分の「良い」をうたわないで世間の目を気にするだろう。そこそこに「いいね」と言われるようなものばかりを作るだろう。そしてそんなわたしを世界は必要としないだろう。ガラクタ工場を世界は必要としない。

 

 書きたいひとが増えている。そのなかでなにができるか。ニッチ探しにわたしは打ち勝てないような気がする。