メモ-2013/10/1

雨は常に「こちら側」にしかなくなぜ誰の死体も叫びださないのか「こちら側」でも

 

 前回は「書くこと」と「演じること」を「非今志向」と「今志向」として性質付けしたのだけれどもこれを別様に喩えることができて、「書くこと」は「出産すること」に「演じること」は「性交すること」に類似していると言えば、佐々木中がラカンを引きつつ『夜戦と永遠』で「大他者の享楽」と「ファルス的享楽」について述べたこととほぼ同じであるように思う。「書くこと」は過去と未来に伸びていくことでこれは出産によって子孫を残し自らの系譜を過去と未来に延伸させていくことに類比でき、その享楽は他者とのつながりをもつことによる。一方で「演じること」は「その瞬間」=「現在」へと(たどり着かない絶頂へと)絶え間なく上り詰めることであり、「ファルス的享楽」に類似する。と書いてはみるもののわたしのラカンへの理解は凡夫並み以下であるからそれ以上のなにかを述べることは難しいが、ここから何かをまだ書き継げられるようにおもうので書いておく。

 また前回に引き続き斎藤環の話をすると彼は男性=「ファルス的享楽」、女性=「他者の享楽」とわりとざっくり『六つの星星』では切り分けていて、男性はファルス中心型であり性的場面においては主体でなければならないが、女性は必ずしも主体ではなくてもよいという違いがあると述べている。女性についてまとめると『女性の欲望は基本的には固有の相手と関係したい、という関係欲でしょう』[p.13]。女性は「他者から欲望されること」「自らの欲望をできるだけ抑えること」を美徳とされてしまうという。本の〈概念の〉ネットワークの存在を考えると関係欲=「他者の享楽」が「書くこと」=「出産」の原動であるという類否はある程度正しいようにおもえるけれど、『関係する女 所有する男』には『所有原理は一般性や普遍性を思考するため、しばしば無時間的なものとなる。これは男性が、所有が永続的であることを望むのだから当然だ。いっぽう女性は、その場その場でのリアルタイムな関係性を重視する。』という文言があるらしく、いまインターネットを検索して見つけただけで原典にはあたっていないのだが、これは最初に書いた「書くこと」=「非今性」という定式化とは矛盾する。この事実が指すのは定式化の無意味であるとはおもうが、まだここから思考を掘り進めるべき余地はあるようにわたしはおもう。ので考える。なぜ精神分析からわたしはものを考えるのかをわたしは説得できないのでそれも考えながら、考える。