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ブログを書けないことを書く

あの夏のわすれられたプールサイドで かんたんに死ぬなんていうなよ

 

 ブログを書くことをよくやっていたころはパソコンをよくやっていたのだけれども、さいきんは実験がいそがしいにくわえてあまりパソコンをやらなくなって、iPadやそういった端末でインターネットをすませてしまうのであまりブログも書かなくなった。長文を入力しやすい「機構」というのがたぶんあってキーボードはそれにとても近い。いっぽうでつるつるのディスプレイは長文入力にあまりむかない。かといって、長文入力用に端末と無線で接続できるキーボードなどを買うような甲斐性はないしお金もないからわたしはどんどんブログを書かなくなってしまった。

 書かないことと短歌は相性がよいとおもうけれど、だから正岡子規のような長文を書くために適した肉体を持たないひとをうけとめられるのが短詩系文学であっただろうし、それは短詩系文学の長所であるか短所であるかわたしは知らない。すくなくとも大作をじっかんしたときの世間一般の求める「感動」を短詩系文学が生産するのはとてもむずかしくて、それは肉体に関する負荷がすくないからというのも理由の一端にはあるのではないかとおもう。

 でも、長文の思考はたいせつで、さいきんわたしはそれを怠っているせいでろくにものがかんがえられないしどんどんばかになっているような気がする。だいたいわたしは文学にも明るくないし、専門であるところの科学にもからっきしである。物理学も数学もわからないから勉強したいといいながらもう大学4年生になってしまったし、英語も話せない。和歌がぜんぜんまったくわからないのに短歌をつくっているけれど、和歌がぜんぜんまったくわからないばかなわたしの短歌をひとにみせて、ひとの時間を奪うのはなんだかとってもいけないことのような気がする。やるべきことをしっかりやってこなかったしちゃんとやったこともわすれてしまって、もうぼつぼつの日焼けにちぎれたふるい輪ゴムみたいな神経がわたしにははしっているのではないかって、そんなことは生理学的にありえないけれど、そんなことをおもってしまうような生活をしてしまう。

 だからこそいまからしっかりちゃんとぜんぶをやりなおして、記憶して、構築して、ちゃんと肉体を鍛えるように長文の思考を形成していかなければならないのだろうし、たとえば和歌を覚えるし、源氏物語だって読むし、英語を話すし物理学だってすいすいと展開する。そうやって世界をもっとうまく呼吸するちからがあって、はじめて、世間一般のたかいひとびとののべるところの「恥ずべき」生活を脱却して、りっぱに身を修めることができるのではないかと考えてみる。『源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり』というようなことを藤原俊成というひとがのべたらしくてまあこういう風なことをのべているひとはいくらでもたぶんいてそういうひとが「よい」とするのはようするに自分の理想だしそういう無数のひとびとの理想すべてにかなうように生きているひとなんてほんとうにまったくいないのかもしれないけれども、でも誰かの理想にかなうことが気持ちがよいとおもうのはけっきょくのところ偽装された性交なのかもしれないけれども、まあでもだれかの理想にかなうのはたのしいしうれしいしきもちがよいのだとわたしはおもう。そして理想にかなううちに肉体はどんどん構築されてつよい体系としてわたしがたぶん世界のなかに屹立できる。あるいはいまのわたしはせかいでまったく屹立していなくてべちゃっとした粘膜状なのかとわたしをかんがえてみるけれど、それが正しいのかは知らない。

 で、で、短歌のみならず小説を書いてみたいと考えていてだってわたしはそもそも小説が好きだったし小説を書きたいし小説を書きたいのだけれども、でも、小説を書けないようにおもうのはそうやって肉体を構築することをすっかりわすれてしまったからで、受験勉強をしていたころは構築するということになれっこだったから構築するように勉強をして構築するように小説を書いていたのだけれども、でも、構築と短歌ということはきわめて相性が悪いようで、わたしはどんどん構築をにがてになって短歌ばっかりよんでしまってべちゃっとした粘膜状になって小説が書けないしブログが書けないし勉強ができないしあたまがわるい。短歌だって構築をちゃんとしないから和歌が全然わからないし、現代短歌もわからないしたいへんに遺恨なことになっている。せめてでもやっぱりこうしてべちゃっとしたことを書くのはよいのかなどうなのかなわからないということをがっと勢いに乗って書いてみてこれがなにかになっていればよいし、すくなくともこれはこれでおもしろいというかちょっとでも文学っぽいなにか、あるいは「文彩」みたいなものがしょうじているかもしれないなとおもうからわたしはこの文章を公開しようとしているわけで、こういういっぱんにゆめみる建築のような構築とは違う形でも焼成されないなまの粘土状でもよいからなにかを書いてそれがかたちになってくれればいいなとわたしはおもっていまもこうして書きながら自己顕示欲をたれながしているし、またこうして反省をさらすことを通じてまた焼成をできるような書くことをすこしずつできればよいようにわたしはおもう。というわけでまたたまにこうしてこの日記をブログに書くようにこれからもまたしていきたいなとおもうようになりました。いえい。