性別はいくつあるか考えてみる、それは64種類か

 繊細な問題であり、下手なことは言えないのだけれども、試し書きとして、おもいうかんだことを書いてみたい。

 

 人間の性別はいくつあるのだろうか、と考える。

 まず人間にかぎらず、「性別」という概念の可能性全体を考える。平面上に円を二つ、一部が重なるようにして描く。片方に「男」、片方に「女」と書いておく。この図において、性別の区分は四種類ある。

 ひとつめ、「男かつ女」という区分がある。ふたつめ、「男または女ではない」という区分がある。それから、私たちに馴染みのある区分として、みっつめ、「女であり男ではない」、よっつめ、「男であり女ではない」という区分がある。

 記号で書いておくと次のようになるとおもう。

 1 男∩女……男でありかつ女である

 2 ¬(男∪女)……男または女ではない

 3 女∩¬男……女であり男ではない、「いわゆる女」

 4 男∩¬女……男であり女ではない、「いわゆる男」

 これを図にもしてみた。四種類の区分があることが、わかりやすくなるとおもう。

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 人間を考えたとき、ほとんどの性別は「いわゆる女」「いわゆる男」に分類されているような気がする。しかし可能性として、「男でありかつ女である」という性別もありうるし、また、「男または女ではない」という性別もありうる。というより、生物全体を見た場合、これらに分類される場合のほうが多いのだろう。人間が(あるいは哺乳類が?脊椎動物が?動物が?)特殊なのだというべきだろう。

 「女」でも「男」でもない第三の性別、じみたものは、区分の二つめ「男または女ではない」に含まれているのだけれども、もし仮に第三の性別を強調する必要が生じた場合、上の区分は実用上不十分なものになる。

 

 さてこそ、この四種類の性別内区分をもとに、性別の数について考えてみる。

 性別に「生物学的な性」と「社会的な性」があることは有名だとおもう。場合により、前者はsexと、後者はgenderと呼ばれることが多い気がする(このあたりの語の定義については、wikipediaによるといろいろとやっかいな問題があるらしいので、ここでは深くはつっこまないでおく)。

 このような、「性別の種類」はいったいいくつあるのだろうか。まず、前述の通り、「生物学的」な意味での性別がある。性染色体だったり、あるいは外見的形質だったりで決められて、名前のように、個人情報のひとつとして社会的に流通していくタイプの性別がある。それをここでは「生物学的性」ととりありず名づけておく。このような「生物学的性」において、当然、前述の四区分が可能である。

 さて、「生物学的性」について述べて、次は「社会的性」ということになるのだろうけれども、これについてはさらに次のふたつに分けられる気がする。

 「社会的性」の区分として、ひとつに「自認的な性」があり、もうひとつに「他認的な性」があるとおもう。どういうことか。「社会的性」は、生物学的=物質的→科学的=客観的な「生物学的性」とは異なっている。「社会的性」は、「生物学的性」の「客観性」に対応する意味で、「主観的」なものであるだろう。人びとの主観性によって担われるものが社会的性である。そして、主観性を担うものにはおおまかにふたつの種類がある。ひとつは自分であり、もうひとつは他人(その拡張としての社会)である。だからこそ、「社会的性」は二分される。

 まず、「自分はどういった性別であるか」という自己意識が当然あるだろう。このような自己意識としての性を、「自認的な性」と名づけておきたい。これについても前述の四区分が可能である。そして、それとは別のところに、他人から期待される性別がある。こちらを「他認的な性」と名づけておく。例えば、「生物学的性は男性だが、男性ばかりの集団のなかで女性的な役割を期待される」(あるいはその逆)ような場合において、「他認的な性」はいわゆる「女」(あるいはその逆)となるだろう。このような他認的な性にもまた前述の四区分が可能である。

 さて、「生物学的性」は一般に生まれてから死ぬまで同一であるが(※もちろん例外もある)、「社会的性」はそれとは違う、という問題がある。小さい頃は「いわゆる男」を自認していたけれども、成長して「男または女ではない」性を自認するようになる、という場合があるかもしれない。また匿名のインターネット上において「男でありかつ女である」性を他人に期待されているけれども、日常社会では「いわゆる女」として生活している人もいるかもしれない。このように、「自認的性」「他認的性」は可変的である。このことは念頭に入れておくべきだとおもう。そして、可変的ではあるが、確かにそれらは存在するはずだ。

 以上、「生物学的性」「自認的性」「他認的性」という三区分を述べた。これ以外にも性別の種類はあるだろうか? ひょっとして、あるような気もするのだけれども、いまの私にはうまくおもいうかべることができない。

 

 さて、以上で材料はそろった。ここまでの考えをまとめよう。性別という概念のうちにはそもそも、1「男でありかつ女である」、2「男または女ではない」、3「女であり男ではない」(いわゆる女)、4「男であり女ではない」(いわゆる男)という四つの可能な区分が存在した。そして性別それ自体が、「生物学的性」「自認的性」「他認的性」という三種類に分けられた。

 この定義のうえに立つと、性別の数は「生物学的性」4種類×「自認的性」4種類×「他認的性」4種類=64種類存在することになる。

 具体例をもとに考えてみる。例えば、生物学的には「いわゆる男」であり、自認的には「いわゆる女」だとおもっているが、そのひとの恋人からみたとき=他認的には、「男でありかつ女である」ようなひとがいるだろう。例えば、生物学的には「男でありかつ女である」が、自認的には「いわゆる男」であり、メディア報道のなかで他認的に「男または女ではない」ものとして扱われるようなひともいるだろう。

 このように、性別を以上の64種類のなかに分けて考えることが可能におもわれる。

 こうして、「性別はいくつあるか」という初めの問いに「64種類」という答えを挙げることができた。けれども、これは決して結論ではない。

 

 これはまだ定義として不十分すぎるとおもう。まずはじめに、「男」「女」という二つの円を出発点にして考えた。しかし、それを出発点とする根拠はどこにもないのである。「男」「女」「第三の性」という三つの円を出発点にすることも、またさらに四つの円を出発点にすることだってできたのだ。たとえば基本となる性が「女」「男」「第三の性」の三種類あるとすると、区分の数は全部で八区分にまで増える(「女であり男であり第三である」「女であり男であり第三でない」「女であり男でなく第三である」「女でなく男であり第三である」「女のみである」「男のみである」「第三のみである」「女でなく男でなく第三でない」)。このとき、性別の数は8×8×8=512種類にまで増えることができる。

 また上にあげた、生物学的性、自認的性、他認的性という三区分はあくまで暫定的なものでしかない。それにくわえてさらなる性別区分が見出される可能性は大いに存在するだろう。

 だから、上に挙げた64種類という数字には「少なくとも」という言葉を付け加えておく必要があるだろう。性別の数は「少なくとも64種類」あるが、それ以上に、いくらでも増えうるに違いない。

 

 付け加えて、もうひとつ書いておく。性別は同一の人物の中でも耐えず変化し続ける。小さい頃、自認的性は「いわゆる女」だったけれども、成長とともに「いわゆる男」に転じた、というようなひともいるだろう。友達のなかで他認的性は「いわゆる男」であるけれども、就職活動のなかでは「いわゆる女」と認識される、というようなひともいるだろう。

 だから、自分の性別やあるいは他人の性別について、64種類のうちのこれである、と名指しすることは無意味である。名指しは常に自認的または他認的行為になるのだから、そのときに名指される性別は、そのとき独自のものにしかならない。結局、人と人とが出会うということがこのような「性的な名指し」なのだろう。そして、性別はその都度ぐにゃぐにゃと変化していく。客観的な「生物学的性」を軸にして、人との出会い=「性的な名指し」の中で、「自認的性」「他認的性」はめまぐるしく切り替わっていく。上に考えた64種類は、その流転の大枠でしかない。

 

 書きたいことはこんなところである。終わりに、この考察から読者=私が引き出すべき結論、それは「性別の数は64種類ある」などという命題では断じてないだろうとおもう。そうではなく、しかしではなんだろう? 自分も他人も、流転し続ける性別群がある。「その中でいかにして生きるべきなのか」……? わからないが、「何を考えるべきか」を宿題として、ここまでで文章を締めくくっておく。