幻想と創作

 『酒と幻想』と題した前回の記事を書いた記憶が覚えてはいるのだけれどもややぼんやりとしていて、いつもとは違うスイッチが入っていた。でもまあ(だからこそ?)面白いとはおもっている。

 その方向が妥当か否かはさておいて、考えを少しだけ突きすすめてみたい。

 ただ、『共同幻想論』は相変わらず100ページくらいしか読んでいなくて、だからこれから書くことは、私の妄想みたいなものでしかない。おそらくはオリジナリティなどないし(どこかで誰かが似たようなことを書いているだろう)、私自身の楽しみのためにしか書かれない。

 

 さてこそ。

 「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」という三つの「幻想」があるらしい。「幻想」とはそもそも何なのか、私にはまったく定義できないけれど、それでも無理矢理に考えてみたい。

 自己も、対なる他者も、あるいは共同性も、それ自体は観念であり幻想であり、つまり言葉の産物でしかないのではないか、ということをまずは前提にする。この前提から、話をすすめる。

 仮説:創作一般とは、このような幻想を「物質化」する営みなのではないか。

 

 物質とは何か。それはここでは「媒介」と同義だ。つまりは「メディア」である。絵だったり、音声だったり、文字だったり、振る舞いだったり、まあなんでもいい。

 人と人との間で、情報を伝達する媒介。それは人によって「創作」される。このような意味での「創作」を、幻想の物質化として考えることはできないだろうか。

 例えば「自己幻想」を物質化しようとすれば、「私」の内面(という幻想)を描写し物質化しようとする、私小説的≒純文学的な創作になるのではないか。

 例えば「対幻想」を物質化しようとすれば、「他者」(という幻想)を描写し物質化しようとする、つまりはひとびとのコミュニケーションを描写しようとする、恋愛小説だったり、あるいは『女の子の可愛さをお楽しみ頂くため邪魔にならない程度の差し障りのない会話をお楽しみいただく』漫画・アニメのような、ひとびとの「関係性」をめぐる創作になるのではないか。

 また例えば「共同幻想」を物質化しようとすれば、「歴史」、「風景」、「社会」、「神」、「セカイ」、「運命」、なんでもいいけれども、そのようなある種の「理念」≒「一般性」(という幻想)を描き出し物質化しようとする創作になるのではないか。

 

 まあ、仮説にすぎない。

 でも、このような前提のもと、「自分はいまなにをしようとしているのか」を考えながら創作をするのは、ある程度は有用である気もする。それに、このようなことを考えながら『共同幻想論』を流し読むのはとても楽しい。

 追って考えたい。