酒と幻想

 最近酒を飲む機会が連続してあってうんざりしているわけではないのだけれどもまあ多少はあきあきしていて、そして考えることが多いかもしれない。

 

 酒は生命に必要か? 不要だ。それは間違いない。酒は娯楽であり、余剰であり、生命維持に必要不可欠なものではない。

 しかし酒は、同時に「文化」でもあるということを考える。例えば最近『絶対貧困』という本を読んでいて、著者はたとえば貧困地域、スラム街などを取材する際、現地住人の手製の酒を振舞わされることが多いという。うまいものではなくただ酔うための酒である。しかし、それを飲むことが現地の人びとと交流するために不可欠なのだとか。酒を飲むことではじめて仲間として認められる。そんな形のある種の「文化」が人類史ではめんめんと続いている。国境をいくつ超えても実態はあまり変わらんだろうし、過去も、現在も、ひょっとして未来もそうかもしれない。

 「私たちは仲間である」という言葉がある。言い換えれば「私たちには共通点がある」。酒はこのような共同性を可能にするものとしての、酒宴という「場」を作り出すのだろうか。私たちは一緒に飲んでいる=私たちは共にある=私たちは仲間である、ということ。

 

 さてこそ共同性。酒の場合は「場」ということを述べたけれど、例えばそれは「趣味」の共通性であったり、あるいは「出身地」の共通性であったりもする。同じ趣味のひとには親近感を覚える、同じ出身地のひとには親近感を覚える、など。だからオリンピックは日本人を応援しよう、とかいろいろうるさいあれがある。

 しかしてそこにおいて「共同性」はコミュニケーションのための手段となる。手段でしかないのだとおもう。大切な物はコミュニケーションであり、その結論としての「私たちは仲間である」であって、共同性そのものは目的ではない。「私たちは仲間である」の大合唱として人間活動のほとんどは考えられるのではないか、とかおもう。

 だから「趣味」を軸とするサークルにおいて、趣味は手段になってしまうとおもう。ん? 部活動? 「趣味」としてのスポーツとは違い、勝つこと、全国優勝、戦いそれ自体が目的となっている? そうだろうか。「勝つこと」とはなんだろうか。それは序列化だろう。ひととひととの序列化であり、差異化である。つまり、「私」と「あなた」の区別である。だとして、それはコミュニケーションといったい何が違うのだろう? 動物たちの順位付け。勝利とはつまり、「私(たち)はあなた(たち)より優れている」というメッセージの発信でしかないのではないか。

 

 このようにして、共同性それ自体は目的化することはないのではないか、と考えてみる。結局、「趣味」も「文化」も「故郷」も言葉の産物であり、それ自体は手にとって触れる実在物ではないのだろう。すべてはコミュニケーションに飲まれていく。

 あるいは最近『共同幻想論』という本をだらだらと流し読んでいて、共同性は「共同幻想」だが、コミュニケーションの相手はすべておそらくは「対幻想」であるし、また、コミュニケーションの片棒としての自意識は「自己幻想」であるという。それを考えれば、何もかも本来は目的化できない、目的化したとおもったら幻想としてすり抜けていく、と考えることもできるかもしれない。コミュニケーションは幻想である、とか。

 んで、まあそれはどうでもいい。結局は「酒」の提供する「場」とか、あるいは「趣味」とか、オリンピックを駆動する「ナショナリティ」とか、そういった手段としての「幻想」=「余剰」が私たちの行動をある程度方向づけていて、それを意識することはあっても、意識したうえで変えようとおもってもどうしようもないということ、だから人類はいつまでも酒を飲み続けるだろう、「酒」=「ある種の合法ドラッグ」の幻想に飲まれ遊び余剰にからめとられ続けるだろう、みたいなことがだらだら書きながら考えたことであるわけだ。

 まとまらん。

 

 つまり、一言で言えば私はいま酔っている。