言葉のセンス、現代詩、私

 根拠や裏付けなど全くないただの感想にすぎないのだけれども、書く。

 

 いわゆる「現代詩」(といっても私が知るのはほとんど短歌だけなのだが)、あるいは「現代詩っぽい文章」は、どうも、「言葉のセンス」さえあれば誰にでも作れる詩(文章)であるような気がする。

 言葉のセンスさえあれば、誰にでも同じような詩(文章)が作れる。「平均化」した詩。そんな詩が、多いような気がする。

 単なる気のせいかもしれない。

 「言葉のセンス」がなければ詩は作れないのだろうか。

 

 言葉のセンスとは、まあ、「才能」のようなものだろう。言葉を嗅ぎとる嗅覚、正しく配置するバランス感覚、など。

 とすると上の文章は、「才能がある人にしか詩は作れない」、と言っていることになるのだろうか。そういうことが私は言いたいのだろうか。どうも、違うような気がするのだけれど。

 

 「言葉のセンス」とはなんだろう。

 

 繰りかえすけれども、ここに書かれていることは単なる個人的な感想でしかなく、実感には個人差がある。微塵も普遍性を持ち合わせない。私が詩に触れる場所は、ツイッター上、および書籍しかない。

 その上で書いている。狂った文章だ。

 言葉のセンスによって書かれた詩。そこに書かれているものは、果たしてなんなのだろう。言葉である。それは間違いない。それでは、それは、「言葉を用いて書かれた詩」なのだろうか。それとも、「言葉によって書かされた詩」なのだろうか。

 このような問いが私の中に耐えず湧き上がる。

 「私」が詩を書いているのか。それとも、言葉を感じ取る「私の才能」が、いや、言葉それ自体が、「私」に詩を書かせているのか。

 「私」は詩を書いているのか。

 考える。分からない。

 

 どうも、「言葉によって書かされている」詩が、多いような気がする。そのような「皮膚感覚」が私にある。「皮膚」が、最近、ひりひりと反応する。

 といっても、この感覚は、ツイッター内で生じたものでしかないのだが。

 インターネットの特徴なのだろうか? 言葉によって作られた世界。

 

 読んでみれば確かに詩として読める。面白い。美しい。楽しい。怖い。しかし、言葉でしかないような詩。現在の「意味」を可能にしている、私たちの現在の「文化」、「文脈」、それが失われてしまったら、同時に失われてしまうような詩。

 うまく言えている気がしないのだけれども、そんな詩が多い、ような気がする。

 文脈依存。それはネット上に流行する、さまざまなスラングにも言えることかもしれない。

 ツイッターでは、そんな詩ばかり、評価されてしまうような気がする。

 言葉を嗅ぎとるセンスのみで書かれた、「詩のようなもの」。

 

 それとは別の、私たちと「文脈」を共有しない別種の知性にも「詩」として理解される、そんな詩は可能なのだろうか。

 言葉のセンスとは関係のない詩。言葉を統べる詩だ。

 益体もないことを考えている。私にはよく分からない。