メモ-2013/10/6

 頼まれて批評を書いているのだがわたしは批評がなんの「ため」にあるのかつまりそれが本質的にどういうことなのかがてんでわからなくなってしまい、書けない。批評とはなにかがわからないということを書いてしまってそれでは批評にはならない。以前NHKのテレビ番組で批評家の宇野常寛さんが批評家業について「馬鹿と思われたら終わりの職業」と述べていて、しかしわたしはわたしが馬鹿であるということを否認できないしむしろ自分が馬鹿であるということからしかなにかが始められないとさいきんはおもっているせいで、とんと批評とは相性が悪いということをおもいしる。

 なにかに対してなにかを述べるためにはそれ相応の形式と道具を利用しなければならないのだけれども最近は、批評とは別様の形式また道具に触れすぎていて、具体的に言えば科学の学術論文なのだけれども、そのせいで批評の形式と道具がわからなくなってしまっているというのも批評が書けない原因ではある。そも、といって今回寄稿をするのは批評家たちの本ではなく、詩人による批評、というようなくくりの本ではある。歌人は批評を兼ねるひとが多いが、歌人による批評は批評家による批評ともまた違っていて、しかしそこにはやはり厳然たる形式と道具があるようにおもえてとてもこわい。とくに重要な道具が「詩人の感性」であるのだけれども、わたしにはそれがつかめないからおそろしい。形式にのっとらない文章を書くしかないとはおもうけれども、わたしは馬鹿だから、形式にのっとらない文章を書こうとして書けるのはただ「つまらない」ものだけであり、そもそもが批評の本に寄稿するべき内容とはならないようにおもう。形式にのっとった「読める」ものは書けない、形式にのっとらないものを書こうとすると「読めない」ものにしかならない、という苦悩があってつまりは行き詰まっている訳である。

 しかし何かを書かねばならないし書きたいことはあるわけで、どうしようかな、どうしようかなと悩んでいる間にも締め切りは迫る。何かを書く。書く。書く。……

メモ-2013/10/1

雨は常に「こちら側」にしかなくなぜ誰の死体も叫びださないのか「こちら側」でも

 

 前回は「書くこと」と「演じること」を「非今志向」と「今志向」として性質付けしたのだけれどもこれを別様に喩えることができて、「書くこと」は「出産すること」に「演じること」は「性交すること」に類似していると言えば、佐々木中がラカンを引きつつ『夜戦と永遠』で「大他者の享楽」と「ファルス的享楽」について述べたこととほぼ同じであるように思う。「書くこと」は過去と未来に伸びていくことでこれは出産によって子孫を残し自らの系譜を過去と未来に延伸させていくことに類比でき、その享楽は他者とのつながりをもつことによる。一方で「演じること」は「その瞬間」=「現在」へと(たどり着かない絶頂へと)絶え間なく上り詰めることであり、「ファルス的享楽」に類似する。と書いてはみるもののわたしのラカンへの理解は凡夫並み以下であるからそれ以上のなにかを述べることは難しいが、ここから何かをまだ書き継げられるようにおもうので書いておく。

 また前回に引き続き斎藤環の話をすると彼は男性=「ファルス的享楽」、女性=「他者の享楽」とわりとざっくり『六つの星星』では切り分けていて、男性はファルス中心型であり性的場面においては主体でなければならないが、女性は必ずしも主体ではなくてもよいという違いがあると述べている。女性についてまとめると『女性の欲望は基本的には固有の相手と関係したい、という関係欲でしょう』[p.13]。女性は「他者から欲望されること」「自らの欲望をできるだけ抑えること」を美徳とされてしまうという。本の〈概念の〉ネットワークの存在を考えると関係欲=「他者の享楽」が「書くこと」=「出産」の原動であるという類否はある程度正しいようにおもえるけれど、『関係する女 所有する男』には『所有原理は一般性や普遍性を思考するため、しばしば無時間的なものとなる。これは男性が、所有が永続的であることを望むのだから当然だ。いっぽう女性は、その場その場でのリアルタイムな関係性を重視する。』という文言があるらしく、いまインターネットを検索して見つけただけで原典にはあたっていないのだが、これは最初に書いた「書くこと」=「非今性」という定式化とは矛盾する。この事実が指すのは定式化の無意味であるとはおもうが、まだここから思考を掘り進めるべき余地はあるようにわたしはおもう。ので考える。なぜ精神分析からわたしはものを考えるのかをわたしは説得できないのでそれも考えながら、考える。

完璧な本

 『六つの星星』を読んでいたら川上未映子さんが小説を書くことは苦しいと言っていて、なぜなら『絶対に完璧な本なんて書けない、ということが最初から分かっているから』と書いていてそうだよねーとおもいました。もちろんわたしは川上未映子さんではないからわたしのそうだよねーは空振りをしていて川上未映子さんのおもうとは適合していないのだけれど、わたしはそうだよねーとおもったのはやはり完璧な本なんて存在しないし完璧な本に憧れてしまうからなのだ。

 完璧な本はない。でも完璧な本により近い本なら例えばあって、聖書でもコーランでも論語でもなんでもよいのだけれども、より完璧ではないわたしの文章をつくって読ませることよりもより完璧であるその文章を読むほうが読者には「善い」ことなのだとおもうからわたしはできれば書きたくない。でも書く。わたしは生きているから書いてしまう。

 生きることと書くことは近いけれども違っていて、演じることと書くこともやはり違う。演じることの本質はコミュニケーションでありつまりは「いま」をよりよく生きること、「いま」を生きることをよりよく実感することなのだけれども、書くことの本質はいまにはない。書くことは過去と未来へ延びていくことであり、それはそもそも、現在同士を接続しようとするコミュニケーションの本源的な欲動とは価値観を異にして、書くこととは透明なすでに失われているその廃墟に自らの住まいを作ることだ。書くことの本質は「記録」にある。記録を伴わない書くこと、つまり口頭により「物語る」ことは演じることであり「いま」のためのコミュニケーションである。だが「物語り」に聴衆がい、聴衆がたとえば集落の子どもたちであり自らの「物語り」を集落の記憶として記憶し伝播してくれる可能性を有する時には、「物語り」は記録の性質を帯び、過去と未来に開かれていく。それはただのコミュニケーションではなく双方向的な時間への現実の内挿となる。

 それはそれでよいのだ。

 現在はコミュニケーションの時代というがそれ以上に書くこと=記録することはあふれていて、記録とは脳の専売特許だったはずが、紙の発明と、電子頭脳の発明が状況を大きく変えてしまった。記録が溢れすぎて身体が追いつかなくなる。わたしたちの「いま」を演じる身体が状況に追いつかなくなっているんだ。身体が悲鳴をあげている。

 だからわたしは不用意な記録を用意したくないしできれば自分も「完璧な本」=「完璧な記録」に近いものばかりを読んで、無駄なことに自らの身体を従事させたくないし書くことにより他人の身体をわたしの偏屈な自己顕示欲に傅かせたくないのだけれども、わたしはそうしながらもいまもまた書いている。他人も書く。世界には書きたい人が溢れすぎている。そのせいで生きることが切迫している。出口なし!

 川上未映子さんが断念せずに小説を書き続ける理由として『夢みる力』ということを述べていて、つまりそれは言葉がひとに夢をみさせる力なのだけれども、『完璧な本』という単語がその力によって川上未映子さんをひきつけて川上未映子さんに川上未映子さんの小説を断念させずに『完璧な本』の方向へと書かせているという構造があるという。それはよい。でも凡人が言葉に惑わされすぎるのは健やかに身体として生きるためにはあまりにもしんどい。なんとか活路を見出さなければ。そう、活路を。

ブログを書けないことを書く

あの夏のわすれられたプールサイドで かんたんに死ぬなんていうなよ

 

 ブログを書くことをよくやっていたころはパソコンをよくやっていたのだけれども、さいきんは実験がいそがしいにくわえてあまりパソコンをやらなくなって、iPadやそういった端末でインターネットをすませてしまうのであまりブログも書かなくなった。長文を入力しやすい「機構」というのがたぶんあってキーボードはそれにとても近い。いっぽうでつるつるのディスプレイは長文入力にあまりむかない。かといって、長文入力用に端末と無線で接続できるキーボードなどを買うような甲斐性はないしお金もないからわたしはどんどんブログを書かなくなってしまった。

 書かないことと短歌は相性がよいとおもうけれど、だから正岡子規のような長文を書くために適した肉体を持たないひとをうけとめられるのが短詩系文学であっただろうし、それは短詩系文学の長所であるか短所であるかわたしは知らない。すくなくとも大作をじっかんしたときの世間一般の求める「感動」を短詩系文学が生産するのはとてもむずかしくて、それは肉体に関する負荷がすくないからというのも理由の一端にはあるのではないかとおもう。

 でも、長文の思考はたいせつで、さいきんわたしはそれを怠っているせいでろくにものがかんがえられないしどんどんばかになっているような気がする。だいたいわたしは文学にも明るくないし、専門であるところの科学にもからっきしである。物理学も数学もわからないから勉強したいといいながらもう大学4年生になってしまったし、英語も話せない。和歌がぜんぜんまったくわからないのに短歌をつくっているけれど、和歌がぜんぜんまったくわからないばかなわたしの短歌をひとにみせて、ひとの時間を奪うのはなんだかとってもいけないことのような気がする。やるべきことをしっかりやってこなかったしちゃんとやったこともわすれてしまって、もうぼつぼつの日焼けにちぎれたふるい輪ゴムみたいな神経がわたしにははしっているのではないかって、そんなことは生理学的にありえないけれど、そんなことをおもってしまうような生活をしてしまう。

 だからこそいまからしっかりちゃんとぜんぶをやりなおして、記憶して、構築して、ちゃんと肉体を鍛えるように長文の思考を形成していかなければならないのだろうし、たとえば和歌を覚えるし、源氏物語だって読むし、英語を話すし物理学だってすいすいと展開する。そうやって世界をもっとうまく呼吸するちからがあって、はじめて、世間一般のたかいひとびとののべるところの「恥ずべき」生活を脱却して、りっぱに身を修めることができるのではないかと考えてみる。『源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり』というようなことを藤原俊成というひとがのべたらしくてまあこういう風なことをのべているひとはいくらでもたぶんいてそういうひとが「よい」とするのはようするに自分の理想だしそういう無数のひとびとの理想すべてにかなうように生きているひとなんてほんとうにまったくいないのかもしれないけれども、でも誰かの理想にかなうことが気持ちがよいとおもうのはけっきょくのところ偽装された性交なのかもしれないけれども、まあでもだれかの理想にかなうのはたのしいしうれしいしきもちがよいのだとわたしはおもう。そして理想にかなううちに肉体はどんどん構築されてつよい体系としてわたしがたぶん世界のなかに屹立できる。あるいはいまのわたしはせかいでまったく屹立していなくてべちゃっとした粘膜状なのかとわたしをかんがえてみるけれど、それが正しいのかは知らない。

 で、で、短歌のみならず小説を書いてみたいと考えていてだってわたしはそもそも小説が好きだったし小説を書きたいし小説を書きたいのだけれども、でも、小説を書けないようにおもうのはそうやって肉体を構築することをすっかりわすれてしまったからで、受験勉強をしていたころは構築するということになれっこだったから構築するように勉強をして構築するように小説を書いていたのだけれども、でも、構築と短歌ということはきわめて相性が悪いようで、わたしはどんどん構築をにがてになって短歌ばっかりよんでしまってべちゃっとした粘膜状になって小説が書けないしブログが書けないし勉強ができないしあたまがわるい。短歌だって構築をちゃんとしないから和歌が全然わからないし、現代短歌もわからないしたいへんに遺恨なことになっている。せめてでもやっぱりこうしてべちゃっとしたことを書くのはよいのかなどうなのかなわからないということをがっと勢いに乗って書いてみてこれがなにかになっていればよいし、すくなくともこれはこれでおもしろいというかちょっとでも文学っぽいなにか、あるいは「文彩」みたいなものがしょうじているかもしれないなとおもうからわたしはこの文章を公開しようとしているわけで、こういういっぱんにゆめみる建築のような構築とは違う形でも焼成されないなまの粘土状でもよいからなにかを書いてそれがかたちになってくれればいいなとわたしはおもっていまもこうして書きながら自己顕示欲をたれながしているし、またこうして反省をさらすことを通じてまた焼成をできるような書くことをすこしずつできればよいようにわたしはおもう。というわけでまたたまにこうしてこの日記をブログに書くようにこれからもまたしていきたいなとおもうようになりました。いえい。

文学フリマの感想

 北海道大学短歌会という組織から、また稀風社という組織から、それぞれ頒布された冊子がある。私は短歌などを寄稿した。大阪府は堺市文学フリマという同人誌即売会が開かれ、私は、いた。「第16回文学フリマin大阪」などとあちらこちらには書かれているとおもう。北海道大学短歌会の冊子には短歌連作「春と痛覚」と一首評を、稀風社の冊子には短歌連作「西暦二〇一二年三上春海短歌記録五〇首」と俳句連作「冬鳥へ」を書いたが、それがなんだ。なんでもない。

 何のためにするのかと問えることと問えないことがある。問えないとは、問うことができないという可能性の問題と、問うべきでないという当為の問題に二分されるが(例えばある種の闘争は目的を問えないが)(それに戦争を含めるべきかはわからない)。

 文学は何のためにあるのか。私にはわからない。あるいはそれはやはり問えないことかもしれないが、私は問うてしまう種類の人間であり、目的性を忘れられない。私はスケールが小さい人間だから、せいぜいが一〇〇年規模の未来しかもっぱら想像していない。一〇〇年後にも短歌は可能だろうか、もちろん可能だ。いま、口語で書くべきか、カタカナを使わないべきか、などと論争をするひととたちがいるが、すべてどうでもいいだろう。「べき」がなんだ。『古典』が存在するのであれば、古典感覚は復活する。古典感覚を無理に「べき」論によって維持させようとする必要がわからない。古典感覚を生き残らせるためには、「べき」論を用いるのではなく、古典を残すべきなのだ。古典はいまあるし、これからもある。何かを否定するのではなく、肯定することのみが力を生じる。「書くべきでない」と述べるのは害悪だ。「書こう」と述べることこそが必要悪だ。

 だからそれは、古典への通路を、わかりやすい形で存在させておくということにもなる。私には古典感覚がないが、それは通路に触れなかったからだ。通路とは例えば文人である父、あるいは見識豊かな教師だ。いま古典感覚がもし失われているとしたら(もっとも、私はこの前提に違和感を覚えるが)(仮に失われていると仮定して論を進める)、それは通路がないからだ。父は死に、教師は失墜した! 一〇〇年後の私たちが一〇〇年前の私たちと同じように古典に触れられるように、古典への通路を保存することが必要ではないか。これは無意味な「べき」論だろうか、そうだ。だから、言い換える。「べき」ではなく、「する」のだ。私は通路になりたい。なるのだ。

 二二世紀の私たちのための古典への通路に私はなりたい。特定の主義を形成したくない。私は回廊だ。私を踏みしだいて、未来の天才と過去の天才が交通すればよいだろう。私は非凡ではない。せめて、私が土台になればいい。一〇〇〇〇年後に残る文学を私は作ることができないはずだ。しかし、作りうる天才のために、その経路になら私はなれるのではないか。天才は私を過ぎ去って、私のことなど記憶しないでよい。

 

 文学フリマには天才になりたい人が溢れて、生理学的には楽しかったが、論理的に私は状況を悲しむ。どうせ、これでよいのだけど。すべて消尽する、そして流転する。永劫回帰だ。すべて善いのだ。そして、だからこそすべてだめだ。天才になろうとするな。読まれようとするな。見られようとするな。私は空間になりたい。見ることを可能にするのが空間だ。天才は光だ。空間はエーテルだ(もちろん、エーテルとは比喩でしかない)。私は見られたくないし、エーテルでありたい。記憶されることに意味はないし、記録されることにも意味はない。自己を保存しようと私はしない。私は天才を生きさせたい。

 もちろん、以上は抽象的な宣言にすぎないし、単なる気の迷いでもあるだろう。悲しみが見せた幻燈なのだ、すべて。でもだとしてもその幻燈を、私はここに記録する。私は天才じゃない、生きて、死ぬんだ。

 天才になりたいものたちよ、自分のために書け。生活を愛するものたちよ、他人のために書け。書け、書くんだ。書き続けろ!

 

 以上、文学フリマが楽しかったという話。

ミカミハルミ日記

 前の記事を書いたのはすでに去年の話であり、書くべきことがあるわけではいまだない。ブログの名前をいつのまにかミカミハルミ日記に変えたのはいつのころだったかなんて思い出せない。今は2013年の4月だ。文学フリマに参加するための準備をしていて、僕はやがて飛行機で大阪に向かうだろう。第16回文学フリマin大阪。西だ。それとも行くべきは「中央」だろうか?

 短歌は書き続けている。小説はあまり書かない。俳句を書き始めた。ブログは、ツイッターは、現実はどうだろう。本を読んでいる。音楽はあまり聴かないかもしれない。美術にはほぼ関係しないし、映像も同じ。でも生きている。

 眠れない夜に、ラジオを聴くようになった。中学生のころ、父からもらった携帯ラジオは大陸からの電波を拾って、異国の言葉を中学生の僕の夜間生活に染み込ませた。言葉の意味とはなんだろう。しんしんと雪の降りつもる夜には電波も乱れ、大陸の言葉はますますあやしくなる。僕はそのわからない言葉を聴くことによって何かを感じようとしていたのだろうか。それは言葉の意味ではなく、では、なんだ。わからなくてすぐにチューニングをいじり、日本語に合わせたこと。

 そして今。インターネットはクリアに接続され、そこに雑音は混入しない。眠れない僕を襲うラジコにはノイズがなく侵入者がいない。僕達はますます、見たいものだけを見ようとするし、聴きたいものだけを聴こうとするだろう。だからこそ、欲望がわからなくなっていく。何がしたいのかわかっているひとなど、はたしているのだろうか。『やりたいこととやるべきことが一致するとき、世界の声が聴こえる』?

 何がしたいのかわからないという病があるが、僕は読んで書きたいだけなのだろうか。あなたは何を欲望しているのだろうか。そして、社会は何を欲望しているのだろう。考える前に生きなければならない。生きていなければ考えられない。生きることと労働することはあまりにも近しいから、問題は混迷を極めている。考えながら労働することはまだ、可能なのだろうか?

 わからない。考える。考えない。考えない。書く。書かない。書いた。書こう。

 ということを僕は、考えていない。

ミカミハルミの展開図

 このブログのタイトルがまた変わって、ミカミハルミの展開図になった。スピッツを聴きながらキーボードを叩いていて、酔いはすでに覚めている。書くべきことなどあるはずがない。でも書く。だから書く。

 

 文学フリマというイベントがあって稀風社というサークルから短歌誌を出した。稀風社ブログというブログに私はテクストを流し込んでいたけれど、文学フリマの会場には行かなかったのは、行こうとおもえば行けたのだけれどもお金がなかったからであり文学フリマには代わりに私の人形が出た。

 私がTwitterやブログで使っているアイコン、あるいはアバター(?)は、『キャラクターなんとか機』というツールをお借りして作成したものでありすでに私の身体よりも私、少なくともインターネット上においては。かわいい。それがグラフィグという組み立て式の人形になった。プリンタを使ってプリントアウトすれば誰でも作れる。誰の机にも私(のアイコンの人形)が乗りうる。

 私。

 

 名前について考えている。ひとりにひとつの名前というのは時代的制約の課した偶発的事実でしか無く、幼名、戒名、……、ひとりの人間の名前はいくらでも変わって差し支えない。変わることが本来的であるわけではなく、どちらでもよいということである。

 私はカミハルという名前を名乗っている。あるいは、ミカミハルミという名前を名乗っている。あるいは、私には私の保護者たちによって付与された名前もある。あるいは、私は新しく別の名を名乗ることもできる。だから、私の名前は収束しない。

 では私は。私は収束せず、発散するのか。私は個としてありうるか。それとも私はそのつどの状況に分散され拡散されていくのか。

 プリンタからプリントアウトされる私は私ではないか。私であるか。

 

 信念はあるが根拠はない。だからこの件について続きは書かない。